まばたき

中学の頃、自分の鬱症状について延々書き続けるブログをやってた友達がいて、人が読むものなのによくそんなどうでもいいこと書けるなって思ってたけど、ブログなんて多分そんなもんだし、自分に興味が無い人はそもそも読まないから、自分が好きなことを書いているという点では正しかったのかなと思える。今は私もその子と同じようなことばかりを書いているわけだし。

私はブラック企業に入ったら使い果たされるまで働くタイプだと思う。クオリティを求め過ぎているのか、それを自分では普通だと思っているから、どこまで満たせばいいのかがいつもわからない。特に今私がいる大学院ではもちろん勉強が主体だから、何をやっても金にはならないし、頑張り甲斐がない中で頑張らなきゃいけない修行のようだ。今その資料を作り込んでも、せいぜい自己満足か、周りに頑張ってるアピールのカケラにもならない。ふと全てが自分の承認欲求を満たすための行為でしかないことに気づくと、やる気が根こそぎ持っていかれてしまう。頭に張り付いたこだまみたいな重りがいつまでも落ちない。目の奥が、泣き過ぎたせいでずっとドクドクしている。この5日間ゴミみたいに過ごして、思い直したり思い直せなかったり、色々だった。

白鳥が鳴いているのに、外に出ても群れが見れなくて悲しい。来年からは白鳥が空を飛んでいくのを見れなくなるかもしれない。岩木山が、夕焼けの前に大きな影を作って立ちはだかるのも見れなくなる。毎日新しい景色を探して、感動したいのに。

こたつ

人類愛など、ない。ただ、このまま無加工の私を受け入れてくれる人を大事にするだけだ。そのためなら一日中泣き続けてエネルギーを消耗しても、それは無駄遣いじゃないはずだ。涙活とかふざけんな。泣くのは悪いことではないけれど、正しい判断力を奪われるのでほどほどにした方がいい。頭がいたい。うどん食べる。

カルピスサワー

怒りっぽくて泣き虫なのは損なことだ。人との会話の中には地雷がたくさんあって、そこを踏まれると、それまでの流れとか楽しかった気持ちとかに関係なくすぐ嫌な気持ちになるのはどうしたらいいのか。誰との関係においても、自分がわかってほしいと思うことの方が圧倒的に多くて、その部分をちゃんとわかって配慮してくれる相手とじゃなきゃ関係が作れない。こだわりが多過ぎてつらい。自分の気になるセンサに引っかかることが生きてるとたくさんある。そのセンサを相手にも押しつけそうになる。他人のことはわからないけれど、何となく私にはそのセンサが人より多いような気がする。もっと鈍くいられたらなぁ。

ワンルームファンタジー

自分よりも音楽に詳しい人と自分が好きな音楽を聴くと、思いもよらない方向に逸れていって、すごく古いルーツ音楽(私にとっては新しい)に出会えるから楽しい。そういうときに出てくる「〇〇っぽい」というのは、この世にあふれた音楽をなんでもかんでも分類したがるエセ音楽通のうざい一言とは全然違ってて、すごく的を射ているし、そのルーツを知ることで今好きな音楽の良さをさらに深く理解できるような音楽に例えられている。一つの音楽を聴いて、あれに似ているなと思うことはよくあることだけど、本気で好きになる音楽は何に似ているとか思いつかない気がする。自分がこれまで聴いてきたものの範疇を超えたところに元があって、それを楽しく教えてくれて、今私が聴いているものも否定しない音楽好きの人がたくさんいればいいなー。

風が冷たい

学生生活もあと半年を切った。前期授業は4月から始まって8月には終わる。それまでは卒業なんてまだまだで、ゼミの発表内容もそんなに充実してなくてもいいやと思っているけど、夏休みが終わるとあら不思議、後期授業が始まる10月にいつの間にか突入している。9月と10月の間、絶対時空が歪んでると思うほど、終わりがすぐ目の前に来ていることを気づかされる。

前期の始まりほど浮足立たず、1年生も大学の雰囲気に大分慣れてきた様子の学食前や、学部の建物内を歩いていると、今自分が学部生に戻れたらとか、大学に入る前に期待してたこと全部やり切れたらどうだったかとか、考えても仕方のない逡巡に陥ることがよくある。私がそうしなかったんだから、もしそうしたらなんてことは永遠に無くて、それをそのとき実現させたかもしれない自分は頭の中の幻でしかない。

学生は進路選択の度に、この先の人生を見誤りたくない一心でどうするかを真剣に悩むが、もしかしたらそれは後々の自分にはあまり大きな影響がないかもしれない。結局、今自分が死んでいないという事実から、このジャングルを選んで間違いではなかった程度の確かめようしかないのだろう。そうは言っても日本はまだまだ学歴社会の根が深いので、国立大学を出たかどうかでその選択肢自体が自分の人生を豊かにするための手段として浮上するかわからないような、選べる権利を持てる特権は絶対にあると思う。そのことの重要さを身を以て教えてくれた親には、感謝しかない。それだけでも、そして最終的に実績のある企業に就職できたのだから、十分この大学に来た意味はあったかなと思う。

もう6年間も大学にいるのだから、これから卒業までの半年間、とりわけ頑張ることは特に思いつかない。自分の持ち場の役割を果たすことと大事な人と仲良くすること、これまで気をつけてきたことを同じようにこれからもやるだけだ。

セブンのコーヒー

友達がいないので普段誰からも連絡がない私だが、ライブ出演のお誘いは時々くる。多分よほど出演者が集まらなくて困っているのだろう。そういうとき、特に最近は、私の自己顕示欲はステージに出ることで解消され得るのかどうかを考えてしまう。ライブに出るのだって結局はライブハウスが儲かるためだし、私の全力の大森靖子のコピーを見てまた来てくれるような素敵な嗜好の人はそうそういないし、アマチュアでライブに出てるような人なんて実生活で満たされてない人ばっかりだから、そういう人たちにとって私が気になるようなことは許容範囲なのだろう。

それでもやっぱり、私は歌うことが好きだ。ギターを弾くのも好きだし、何より音楽を聴くのが好きだ。自分には音楽しかないと思っているわけではないけれど、それなりにこだわって聴く音楽を選んでいるし、気に入っているアルバムはかなり聴き込んでいる自信がある。私が聴いてる音楽は、今のヒットチャートに並ぶものよりもずっとかっこいいと思っている。そこに自負があると思えば思うほど、アマチュアのライブに出る気はどんどん失せていく。アマチュアの音楽が成立するのはほぼ身内、組織票のおかげで、お金さえあればそんなものすら無くたって誰でも出れる。だから私も初心者だったけど出られた。でもそれでいい、アマチュアだから。それに比べて私は、アマチュアのくせに、しかも自分じゃ曲を作れないくせに、強いプロ意識を持ってやっている。そういう心持ちでしか、音楽には向き合えない。それは、私の生活の一部になってくれている曲を自分がコピーして演奏するからこそ生まれる責任感だ。大好きだから馬鹿にされたくなくて、ファンとしてできる表現を精一杯ぶつけてきたつもりだ。下手にオリジナルなんか作って、ローカルスターにでもなった気でいるつまんねー弾き語りしかできないようなおっさんに、「いい曲だね、○○っぽくて」とか言われた日にはもう絶対ライブなんか出たくない。そんなに自分が作った曲に自信あんのかよ。井の中の蛙として一生やってろよ。とかアマチュアミュージシャンの悪口が沸々と湧いてきてしまうので、私はやっぱりそういう場にはもう立てないのかなという気でいる。だってやっぱり、音楽がただの欲望処理の道具として粗末に扱われてるように見えちゃうんだもん、、、、

音楽には酒が欠かせなくて、バンドメンバーやお客さんとの絆が、とか本当どうでもよくないですか。やっぱり曲が良くないと聴けないし、いい年して音楽やってる時点でもう相当寒いのに。そんな中でも、アマチュアとしての立ち位置をちゃんとわかってて、イベントに出る意味とか何を聴かせるかとか、ちゃんと聴き手のことを考えたライブをする人たちもたくさん見た。オリジナルとかコピーとか関係なく、かっこいい演奏はすごくいいなと素直に思えた。オリジナル曲至上主義は本当にクソだ。有名な曲をバッチリコピーして見せつけてくるようなバンドには勝てない。オリジナル曲で、ライブハウス出るまでに覚えてる曲いくつある?そんななのにミュージシャン然とした態度取られたら本当に腹が立つ。

きっと日本全国に、アマチュアミュージシャンの界隈というのは存在するのだろう。だから、素人が音楽を演奏する場があること自体は普通のことなんだと思う。ただ私が、趣味や遊びとして音楽を演奏できないだけだ。そういう人たちの畑をわざわざ荒らすようなことはしたくない。私の考え方が正解だとも思わない。だって私が音楽サークルにいたときは、楽器初心者の人たちに音楽って楽しいって思ってほしかったから。それとこれとは話が違うっていうか、それなりに楽器の練習もしてきて曲作ったりしてるなら、もうちょっとまともに演奏できないのかって思っちゃうし。そんな風に成り立ってる世界はそれはそれでアリなんだろうから、私はもう関わらない方がいいんだろうな。

昨日はエレファントカシマシのライブを、近所のホールまで観に行った。かなり近くで観れて大満足!宮本はいい声だった。最近はメディアの露出も多かったけれど、思った以上に皆ちゃんとギラギラしてて、昔の煩悩だらけみたいな曲から最近のキラキラした曲まで、バランスが良くて充実していた。今日テレビで見た、東京のアマチュアミュージシャンの人が、プロにならない方がロックだって言ってたけど、それはやっぱり言い訳だと思う。プロになったからこそ、自分がやりたい音楽と世間が求めている音楽の差を埋めようとして、もがいて戦っている人がどれだけいるか。そういう人たちが成功して、やっとその2つが近づいてきたときの喜び、本人たちのかっこよさ。アマチュアにはアマチュアの苦労があるし、確かに求められている存在ではあるだろうけど、プロはその規模が全然違う。そこに行き着くまでなんとか続けてくれてて、本当に良かった。オーケンも大森さんも、大事なのは続けることだって言っていたけど、きっと宮本もそう思ってたのかな。音楽は自分で作って自分が気持ち良くなるものじゃなくて、誰かからもらって色んな気持ちになって、豊かにしてもらうものだって思う方が、私の性格に合っているような気がする。

餃子

真面目さだけは自信があるけど、それで良かったと思ったことは一度もない。大学は第1希望のところには入れなかったし、就職先も第1希望のところは落ちてしまった。大学では第1希望じゃなかったからという理由で失敗したくなくて真面目に頑張ったのと同じように、これから働き始めてからも同じように頑張るだけだ。

ブラック企業での働き方が問題視されるようになってから、はっきりした根拠もないのに相手を責めるような言葉を投げかける上司や、どんな理由であれ生徒に対して体罰をする先生や、掴みかかるような取り調べをする刑事さんは、すぐパワハラと言われ、ネットでもテレビのニュースでも叩かれがちだ。でもそれは、そういう人たちがそうするように教育されてきた結果なんじゃないかと思う。私は高校が進学校だったし、小中高と吹奏楽部だったし、真面目な性格も相まって、体育会系な雰囲気に慣れきっていた。そこでは時間は作るものだって教えられたし、ちゃんとしなきゃと思い続けることが大事だと言われたし、最後は気持ち次第だとも言われた。プライドの高さと真面目な性格に振り回されていた私は、完全にその雰囲気に飲み込まれて、そういう強い思想を持ち続ける自分こそ正しいと思い込んでいた。だから、今でも、どちらかというと自分はパワハラを相手に押し付ける方の人達と似た考え方をしているなと思う。それが、人間関係を構築するときの足かせになっていることに気づいたのは、つい最近のことだ。見た目の雰囲気に囚われ、相手のことをよく知りもせずにロクな人間じゃないと決めつけがちだ。そのせいで、仲良くできるはずの人達とも仲良くできなかったり、うまく話さなせなかったり、そんなことばっかりで、大学6年間のうちに良好な人間関係を構築することがすっかり怖くなった。

そんなんだからすれ違ったときに笑って挨拶できる人は結局全然増えなかったけど、働き始める前に自分のこういう特性を知っておいて良かったと思う。知ったところで自分の性格が変わるわけではない。だから今は、この私で社会を生き抜くために、武器を装備していく時期なんだと思う。それは世渡り上手になるための方法を勉強するんじゃなくて、信頼する人とたくさん色んな話をしたり、若い頃自分をこじらせていたおじさんたちのラジオやテレビを見たり、私みたいな人間に訴えかけるような音楽を聴いたり、映画を見たり、自分にはこれがあるから大丈夫って思えるような宝物 = 武器をたくさん集めておくことだ。困っときとか悲しいときに見返して、また頑張れるようにするためには、そういう武器は多い方がいいから。