キラキラ

今、長崎のガラス工芸店で買ったステンドグラスの小さなランプを灯した部屋で、ブログを書いている。たくさん種類がある中で、すごく悩んで、黄色とオレンジと水色と黄緑色のガラスが綺麗に重なり合ったデザインのランプを買った。早速灯りを点けてみると、6畳一間の小さな部屋はその灯りですぐにいっぱいになった。白い壁に反射したガラスの色が、羽を広げたトンボに見える。ガラス表面の形状は様々で、模様が入っているものもあれば、色が少し曇っているもの、でこぼこしたもの、それらのガラスが、奥で光る電球の光を透かして、まるで走馬灯のように不思議な光を放っている。

長崎では、綺麗なものをたくさん見た。街そのものが綺麗だった。ヨーロッパとの不思議な文化の融合が、とても新鮮だった。ハウステンボスのイルミネーションには圧倒されたが、平和公園に置かれた平和の像は迫力があった。テレビ越しに見るより、その像の肉体からはとても屈強な印象を受けた。その身体とは裏腹に、表情は穏やかで、仏像のようだった。長崎の街を優しく見守るその像は頼もしく見え、今のこの平和な状態がずっと続くといいと心から思った。

キラキラ光るステンドグラスを見る度に、今回の長崎旅行の思い出を振り返ることができそうで嬉しい。空と海が広くて、良い歴史も悲しい歴史も全て無かったことにはしない、この街に降りかかったたくさんの出来事が、今の現代の暮らしに大きな影響を与えている、そんな貴重な街・長崎を訪れることができて、本当に良かったな。また絶対来たい!

そしてこの旅行を通じて、本当に自分は彼氏としか遊べないなということを強く感じてしまった…。まず、お互い同性に対するコンプレックスが多少なりともあるので、異性であるお互いと一緒にいるのが非常に楽。好きなようにペラペラ喋ってもいいし、だんまりしてもいいし、相手がどんな態度でもそんなに責めることはないので、自由にしていられる。あとは、悪口が基本嫌いなので、陰口大会には絶対ならない。故に相手の話を聞いたことで自分の心が歪むことがない。素晴らしい!他人なのに、こんなに一緒の時間を過ごしてもまた会いたいと思うのは、貴重な存在だな〜と改めて思う。

でも、やっぱり友達はほしいのだ。男女関係なく。あと年齢も関係なく。友達が欲しいから、私としてはすごく丁寧にコミュニケーションを図っているつもりなんだけど、それがいけないのか…?相手の話をちゃんと聞いて、リアクションして、それに関連した自分の話をするってだけだと思ってたんだけど、あんまり友達っぽい関係が築けない…。だいさんは来月会ってくれるらしい。同期の女子とはもう絶望的なのでとりあえず諦めとく。そうなると、私が話したい同期の男の子に声をかけるんだけど、複数人で集まるのは苦手なのでどうしても2人になってしまうし…。でも仕方ない!ちゃんと話そうとすると2人が1番楽なんだし。

旅行に一緒に行ける友達がほしいわけじゃない。ただ、いつ会っても近況報告をし合うことができて、会うこと自体にストレスが無くて、確実に笑ってバイバイできる人と友達になりたーい。

チャンジャ

私はただの社会人なので、誰かと分かり合えなくても、わからないなら死ねばいいで済ませていいんだよな。歌手じゃないし、自分の思想を売ってお金をもらってるわけじゃないから。それでも、なんとかしたかった。彼女に、自分には到底理解が及ばないような人間と付き合うことがどれだけ有意義で楽しいことか、他人を、自分だけの偏見で築き上げた枠に嵌めることの無意味さを、わかってほしかった。彼女の言葉に頷き続けていれば友達でいられたかもしれないけど、限界だったんだ。最近読んだ自己啓発本に、他人軸ではなく自分軸で生きられるようになったら自分の意見を言いたくなる、それを言った結果離れていく人はいるだろうけど、そんな人は所詮そんなものなのだ、そのままのあなたを愛してくれる人に必ず出会えるって書いてあった。まさか彼女が、そうなってしまうとは思ってもみなかった。彼女にとって私は、弱くて馬鹿で、すぐ他人に依存して縋るようなかわいそうな人間としてしか映っていなかったのかと思うと、悲しくて悲しくて、呆れ果てて、失望した。私は友情だと思っていたけど、それはただの同情だったのかもしれない。虚しさしかない。

女友達というのは、男とぶりっ子を嫌いにならなければいけないなんて、人間ってそんなに簡単じゃないでしょう。好きと嫌いが混在して立ち止まったり、それでも愛し愛されたいと思って傷ついたり、文章にすれば大げさに見えるけど、人を大事にするってそういうことだと思う。もし、そんな限定された狭い視野で生きないと友達ができないなら、そんなもん一生いらない。私はみんなを大事にしたい。どこかの関係を良好に保つために、誰かを犠牲にして悪口を言って面白がるなんて、私にはできない。

私は頑張って優しくした。今回うまくいかなったのは、大雨に降られたようなものだ。そういう風にしか人と接することができないから、浅く広くみたいな関係はできそうにない。可愛くないし。愛が重いとかいうけど、お前の愛が軽すぎなんだよ。1対1で、最後までちゃんと向き合いたかった。でも無理だった。ここまでされてもまだ好きでいるなんて、それはさすがにできなかった。できなかったから逃げることにした。

彼女の恋人のたむらさんと、団体でバス旅行に行く夢を見た。たむらさんに、最近元気?大丈夫?って聞いたら、大丈夫だよ、なんでそんなこと聞くのって、理由だって絶対わかってるくせにはぐらかすような、いつもの顔で笑っていた。その笑顔が心配なんだよ、、、うまくいかなくても、必ず幸せになってほしいなぁ。

彼女も住むこの寮から出たくて、彼氏を強引に説得して、2人で住む部屋の申し込みを済ませてきた。彼には、感情のままに勢いで行動するのは危ないから、やめたほうがいいよって言われたけど、これまでの人生大体そうやって方向転換してきたから、その癖をやめろっていうのは無茶だなと思った。彼はいつも正しい。それでもやっぱり、私だって正しい。だって、嫌な記憶が生まれた場所にいつまでも住むのはつらいんだもん。会社はさすがにやめないけど。

同期といても単に楽しいとは思えなくなってきたので、そろそろ新しいコミュニティを探し始めようかと思う。それよりまず、新生活を楽しみに待てるくらいには心の余裕を持ちたい。

眩しい

獣になれない私たち 最終回だった。最初はただのこじらせた恋愛ドラマかと思っていたが、何となく見続けているうちに、少しずつ好きになっていった。最終回を見ていてわかったことは、学生に比べて大人は自分の環境を自由に選べるということだ。隣の喫茶店のウエイトレスのように、自分を取り巻く人々というのは目まぐるしく変わる。変えていいんだ。上司だって替えが効くんだから、仕事が嫌なら辞めることができる。家族が欲しければ作ることができる。引っ越しもできる。

多分もう、誰にも怒られない。高校生のとき、電車に乗っていてふと海が見えたからといって降りられるのは、大学生だけだと聞いたが、大人はもっとその先にまで行ける。海を越えて異国の地に行って、見たこともない果物を食べたり、不思議な光を放つビーズで作られたネックレスに見惚れたり、自分が触れたいもの、見たいものに好きなように近づいていくことができる。大人だって自由だ。

私は、私が1番好きな人でいたい。だから友達を増やしたいとか、スポーツを始めたいとか、そんなことは求めない。プーさんがいつ森に誘いに来ても、すぐに応えて遊びに行けるような人でありたい。大森靖子の信念を持ったまま、会社にしがみつきたい。みうらさんもオーケンも大森さんも、継続こそ成功、キープオンが大事だと言っているので、お腹にいいと聞くキムチを毎日食べたり、えごま油を毎日摂ったり、ジムもちょこちょこ続ける、自炊も、音楽も。その先の5年後、待ってる人と出会いたい。キムチを食べ続けることで出会える人だっているかもしれない。

ちゃんとねむい。ちゃんと終わる。ちゃん。

天使の居留守

晴れていたら手ぶらで歩いて、雨が降ったら傘を差して、そういうふうに生きていきたいと思った矢先、風邪を引いた。時間と人の気分はコントロール不能になった、でもそれ以外はその二つ以外はどうにでもなるんだって、その歌詞の意味は高校生の頃からわかっていたつもりになっていたけど、24歳になった今、やっとその言葉を素直に受け入れて生きていける気がした。

冬になると雪国の人間はみんな短気になる。私はそれが大嫌いで、だから冬も嫌いだった。みんなイライラしている。駅員さんも街の人も、家族も。冬が好きっていう人はどうせ南国生まれで、雪が積もった東北に都合よく来て、おいしいとこだけ味わってさっさと帰ってしまう最低の輩だと思ってたけど、そもそも観光ってそういうものだよなーって今は思う。

1日部屋で過ごしていると、向かいのアパートを照らす太陽の光の色が確実に変わっていくのがよくわかる。カラスの声は15:00になるともう際立って聞こえてきて、秋の終わりが近づいている。私は体がだるいので、今日は12:00過ぎ頃起きて、昨日彼氏が買ってきてくれた黒糖ロールとヨーグルトと、前から買っておいた苺大福を食べる。でもあと2回食事を摂らないと、2回分の薬が飲めないので、赤いきつね緑のたぬきを食べようかなーと思っているところだ。その辺の草とか虫とか食べて生きていけたらどんなに楽だろう、だって猫はコンビニ行かなくても生きていけてるのにね。

私にとっての安定とは、自分が自分を受け入れることだとようやくわかった。特に就職してからの約半年は、自分を否定し続けて死にたくなって、それはある意味自殺行為に過ぎなくて。それでうまくいかなかったから、これからは自分の生活丸ごと、自分で花マルをつけてあげたいと思った。そう思ったら、ビデオの録画データがサブカルばっかりだったり、人に見せられないようなものばっかりだったり、どうしようもなく好きなひねくれた音楽とか、それらがより一層愛しくなった。世の中、真理をとけばみんなが振り返ると思いきや、大森靖子も挫・人間も全然売れ線じゃないし、意外とみんな頑固だ。だったら私も、Mステで流れてくる音楽なんか耳に入れないし、絶対好きにならない。

出かける前に添加物でもなんでもいいから食べて、お風呂に入ろう。

私は私よ 心があるもの

今週の土日は実家で過ごした。理由としては、日曜日が母の誕生日だったことと、木曜日に産まれたばかりの従兄弟の赤ちゃんの動画が母から送られてきて、それに対して謎の劣等感しか抱けず「幸せそうでいいね」としか返事ができなかった私の心に強い不安を抱き、実家でのんびりすることで少しでも自分を取り戻そうと思ったからだ。金曜日、思い切って行った飲み会では惨敗で、しかもやりたくないのに任されてしまった幹事の役割から逃げたくて集金を後回しにしてしまった結果、月曜日にそれをやらなければならず、ああああもう全部投げ出したい!!!と気持ちが超荒んでいたので、土日は逃げることにして大大大正解なのだった。

平日にやりたいと思っていたことを全部やった。冬靴とコートを持ち帰ったし、向こうでは小豆とみたらししか見つからず、ずっと食べたいと思っていたゴマだれの串団子を食べたし、新しいものも買ったし、髪をばっさり切ったりした。普段モノが溢れた都会に住んでいても、欲求が無いと何にもならないのと同じで、逆に何もない田舎でもやりたいことがあれば割と叶うもんだなと思った。平日は無気力に過ごしていると思っていたけれど、場所を変えると案外ほしいものが思い浮かんだり、やりたいことがあったりするのだ。

本屋さんで、「7日間で自己肯定感を上げる方法」という本を買った。そういう本を買おうという気になるのも、都内で暮らしているとなかなか無い。人の流れの多さや、音の大きさに疲弊して、どれだけ普段全てを何となくやり過ごしているのかがわかった。その本は7日間どころか、およそこの2日間で読み終わってしまうくらい内容がシンプルで、わかりやすかった。普段母からよく言われていることをまとめたような内容の本だったから、なおさらわかりやすかったのかもしれない。内容を簡単に書くと、自己肯定感が低いために、他人の顔色や周りからの評価ばかりを気にして「他人軸」で生きている人が、好きなことを好きなように取り組むことができる「自分軸」で生きるための方法を教示するものだ。その本を読んでみて思ったことは、「案外私も自分軸で生きられているな」ということだ。すごく些細なことだけど、頼まれたことを断ったり、行きたくないと思った場所にはもう行かないようにしようと思ったり、ちょこちょこできていることもある。ただ、それこそが自分軸で生きること、という意識を持ったことが無いので、そういう行動こそ私の意思だったのかと新しい気づきを得た。明日からは、嫌なこととか、苦手なこととか、やりたくないことをもっと大事にしようと思った。

その本では、苦手なことをやらざるを得ない状況になって、もし失敗してしまったとき、自分の後輩が失敗して落ち込んでる時にかける言葉と同じことを、自分に言ってあげましょうと書いていた。まさに今の、苦手な幹事を引き受けてしまったがために、集金のタイミングを誤ってしまった私のことだなーと思った。だからとりあえず、「苦手でやりたくなかったことなんだから仕方ない。集金のことを考えることが嫌だったんだから。とりあえず今は、自分が立て替えた分を返してもらって、次もしも幹事を任されそうになったら断ろう」と言ってあげようと思う。母も同じようなことを言ってくれた。その本を読んで、母の言葉が改めて身に沁みた。

あとは、自分が好きなように行動した結果、人に嫌われても仕方ない、という気持ちを久しぶりに思い出した。自分軸で生きることにしたことで、離れていく人がいる一方、その方がいいと言ってくれて近くに居続けてくれる人がいることも確かだ。さっきまでは幹事を断ることが考えられなかったけど、今では断るための文章が頭に浮かぶ。「これってまた私が幹事をやる流れですか…?本当はすごく苦手でやりたくないので、誰かにお願いしたいんですけど…」って、どんだけ幹事についてぐるぐる考えてるんだ私。よっぽど嫌だったんだな…。自分でも気づかなかった。

この本には、「私は私」っていう言葉がちょこちょこ出てくる。大森さんの歌詞にも、よく見られる言葉だ。私は、部屋でパーティードレスを歌っていると大体号泣してしまうのだが、いつも心に強く響くのは、「私は私よ 心があるもの」という一文。今思えばそれは、自分の気持ちを押し殺しがちな毎日の中で、その歌のその部分だけが、私の本当の心の叫びを素直に表現してくれている、大森さんだけがその気持ちを歌にしてくれていたのだ。その本を読むまで気づかなかったけれど、ずっと素直にそう思いたかった。良いところも悪いところも、ああそれが、どうしようもなく私なんだった、って思いたかった。

こんなに、自分の故郷に感謝した日はなかった。生きていく上ですごく大事なことに、たくさん気づくことができた。それを得られたのが、ものが溢れた都会ではなく、何もないけどゆったりした地元だったのは皮肉か?素敵な家を買って、落ち着く空間を作ってくれた母に感謝だ。

時間は作るものじゃない、絶対に。いつだってそこにあるものだ。だから自然に、何かやれる感じになったら時間に乗ってそれに取り組んだらいい。無理矢理そこを空けてねじ込むのではなく、ちゃんと準備をして吟味して、行けるぞって思えたらどこかに行こう。やっぱり都会でも、音楽をやってる知り合いを作りたいな。自分がバンドを組むとかではなく、とりあえず音楽好きで趣味が合う友達を作りたい。そのために、小さいライブハウスに行こう。いつ行くかは決めずに、それをやろう。久しぶりに少しだけワクワクした。

しねとはいわないが

幸せに決まった形なんてない、いつか絶対幸せになってやる、っていうかもう十分幸せなのに、それは違う幸せの形はこうだって見せつけてくるやつの多さよ。それはマウンティング?なんで私が不幸だって決めつけるんだ?私が暗いから?しゃべらないから?大人しいから?ライブ行って誰かと知り合う気なんかねーんだよ、ライブ行ったらその音楽をただひたすら全身で聴いて、浴びた感動、幸福感を全部全部持ち帰って、それらを次の日からの装備品として身につけて生きていくことしか考えられないから、そこで友達作りとか意味わからん。お前らの幸せの方がつまんない。友達たくさんいて、遊び歩いて、旅行して、お金なくて、でもそれを誇らしげに話してるときのお前の顔気持ち悪いよ。挨拶もまともにできない、若いくせに偉そうで、周りの人をちょっとバカにしたような態度割とまじでむかつくよ。私よりお前らの方がずっと縛られてる、無理してるように見える。幸せのあり方はいつだって自由だ。時間は作るものだって、どの口が言ってんの。お前は使った時間で遊んでるかもしれないけど、私だって同じように作った時間で料理したりジム行ったり、私なりに過ごしてるんだよ。それを一欠片も想像しようとしない。きっとそんなこと考えたことないんだろうね、自分にとっての幸せは、世間一般に言われるような普通な、孤独じゃない、それの近似値叩き出してるからって偉そうにしたんじゃねえよ。大したことねーよ。

とかって頭の中でうちの若手の先輩たちを泣きながら殺してたら、彼氏から電話がきた。今日これからそっち行くからって。私にとっては、世界で1人だけ、正確に言えば2人、私のことを1番に考えてくれる人がいることが、1番の私の人生での価値だ。

明らかに色が違うんだ、私だけ。でもやつらには、大森靖子の音楽なんか必要ない。おはよーの価値も知らない。そんなのに、なんで私が疎外感を感じなきゃいけないんだ、どうして遊んでる時間が多いほど幸せっていう比例関係が成り立つような気がしちゃうのか、絶対違うだろ。私だって遊んでる、人に言って色褪せるのが嫌だから言わないけど、確かに楽しい記憶だってちゃんとあるのに。結局、声のボリュームが大きい人の言葉ばかりが蔓延する。それがメジャーだって祭り上げられてるだけで、それが普通だって勘違いしてるやつばっかだ。

久しぶりに、悔しい気持ちを思い出した。悔しかったから楽器の練習に没頭して、勉強に没頭していた頃の私を思い出した。あいつらより価値のある人間になってやる。それはちゃんと、世間的にも、みんなが認める価値を持った、必要とされる人間になる。悔しい。今はまだ何にもないけど、いつか絶対手に入れる。私にしかできないことを見つけて、誰も何も言えないくらい、実力でねじ伏せられるくらい強くなる。私は変わらない。意地でも染まらない。私は、私が正しいと思った態度で人と接する。あんな人たちに、合わせて生きていくことの方が不幸だ。

スタバ

最近また、絶不調な毎日が続いている。こんな文を書いていることが隣に座っている人にバレたらどうしようと、不安になりながらも、京浜東北線南浦和行きの電車に乗りながらブログを書く。自分の気持ちを書くなんて、楽しかったー☆☆みたいな頭空っぽな文章も、鬱々クサクサした文章でも、どっちにしろ根底にはナルシズムが沈んでいるのだ。私のことなんてもう考えたくない!重過ぎて、ちょっとしたことでふわーっと生きていけない気持ちの渦に入っていく。死にたい絶望って、ずーーんっていう重みがくるんじゃなく、逆にふわふわと体が浮くような、そしてそのまま死ぬ方向へ考えが持っていかれる感じがする。なんの理屈もない。なんの理屈もなく、生きていくのが自分には到底無理なああもうできないという無力感に優しく包まれる。その感覚から逃れたくて、今日は母からの話にあった遠藤ミチロウに想いを馳せてみることにした。少しでも意識を私から遠ざけるためだ。生のミチロウを、私は見たことがない。けれど、夏の魔物で、ミチロウ抜きのミチロウバンド、羊歯明神の演奏を見たことがある。凄まじいエネルギーだった。力強い演奏、雄叫びのような激しい歌、そこには、生きている人間の漲るパワーがぎゅうううっと詰まっていて、気がついたら手を伸ばしていた。この演奏者たちを率いる遠藤ミチロウは、この中の誰よりも強くて大きな音楽を奏でるんだろうなと思った。そんな、遠藤ミチロウ膵臓癌が見つかったらしい。「遠藤生き霊」ではなく、本物の歌をぜひ聞きたいので、元気になってほしい、ミチロウ。きっとオーケンも心配してるんだろうな。全く世代じゃないのに高校の頃スターリンのコピバンからバンドを始めたリヲくんも悲しいだろうな。他人のことを想像するって、こういうことかな、おかあさん。

明日は会社の飲み会がある。私の頭の中では、行きたい、行きたくないがグルグルと頭の中でせめぎあっている。私を人数に含んだ数で予約確定をさっき済ませてもなお、本当にこれで良かったのかずっと考えている。私は今、というか相変わらず、若手と呼ばれる年代の人たちと馴染めないでいる。私以外の若手の人たちが連れ立ってコンビニに行ったり、休憩しに行っているのを見ると、激しい疎外感を感じる。こういうことを下手に他人にいうと、さきちゃんのように「機嫌が悪い」とか思われ兼ねないので、完全に持て余してしまう。またこうやって自分のことをぐじぐじ考えている!自分を自分の脳からひっぺがしたい。

大学の頃からずっと、なんとかしたかった。もっとかわいく笑って過ごせば良かった、もっと周りの人のこと好きになれば良かった、って、何回も思った。それでもなんか怖くて、居場所がなくて、研究室から逃げてトイレとか彼氏の部屋とかずっと逃げ続けていた。暗い、人生を明るく生きたい、とは思わないけど、楽に生きたい。