近頃一番腹を立ててしまったことは、超親友のみーさんと家で映画のDVDを見ていて、私が選んだ映画を見ているときにお菓子をすごい音でボリボリ食べられたり、携帯でTwitterを見られたりしたとき。私は映画や音楽においてすごく変わったものが好きなので、それを誰かと一緒に楽しく共有できる自信が全くない。だから逆に、相手が私の全然好きじゃない物を共有しようとしてくるときにはものすごく気を遣う。自分が好きな物を言ったら相手からドン引きされたり、話を逸らされたりした経験があるから、相手には同じことをしたくないとどうしても強く思ってしまうのだ。そうなると結局、誰かと何かを鑑賞するときには相手が見たいものや好きなものにするに限るし、それが一番楽だ。しかしそうとは分かっていても、親しい相手に対するハードルは自然と高くなっていくもので、私が好きな物もちゃんと真剣に向き合ってこその特別な関係だと思うし、超一方的に私が気を遣う状況っておかしくない!?と理不尽さを勝手に抱え込んでしまうので、何も訳を言わずにただただ不機嫌になって怒ってしまうんだないつも、、、。でもやっぱりだめなのかと思う経験もなかなかつらいし、つまんないならつまんないって言って欲しいし、それを、相手は無意識なのかもしれないけどお菓子や携帯を使ってアピールされている気がするのは耐え難い。しかも大概が「勝手な思い込み」からくるつらさなので、なんかもう、誰に怒っていいのか、それはそもそも怒りなのかもよくわからなくなって、いつも困ったことになってしまうのだ。相手に、自分の好きな物を共有するには私が一番いいと思って欲しいけど、逆はやっぱり無理なんだな、私の趣味が変だから。

それを何の気兼ねもなく共有できるのは母親だ。親であっても、地球上でそんなことが可能な人間が1人いることは心底ありがたい。

昨日は大晦日だったので、毎年のように母の実家で紅白歌合戦を見た。今年は母も私も大好きなエレファントカシマシが出場することになっていた。テレビの前でiPhoneを構え、写真撮影や動画撮影に余念がない母。思い切り喜べて良かった。エレカシの出番が終わって祖母が一言「どこがいいの?あまりに普通だったけど」。多分このたった3分間の演奏を聴いて、分かる人には分かるし、わからないなら多分一生わからないんだろうなと思った。そのくらいかなり真剣に演奏を聴いている私や母からすれば、それは神経をテレビの画面とその音に集中させないと拾えない魅力なんだろうし、そうやって見てると紅白もなかなか面白い。真剣に聴けば聴くほど好きになるものが増える音楽ってすごい。CDは買わないかもしれないけど、印象に残った歌手やバンドもたくさんあった。

と、実家の雰囲気は、その姿勢からしてすでにズレている(私と同じような感覚を持つ母が、その家で20年近く過ごしてきたことを想像すると、正直ゾッとする…)。それはでも、たった年一回我慢して、私と母でわかったところを話し合って笑えればそれでいいのだが、自分が家族を持ったときに毎日このズレを感じ続けるのはつらいと思う。でも求めていることは割と普通のことで、一緒に何かを見たり聴いたりしているときは、こっちがそれを好きなんだということを念頭に置いて欲しいというだけなのだ。それに基づいた行動を相手なりに取ってくれるだけで、安心感はだいぶ変わってくると思う。それでもやっぱり無理かもしれないので、みーさんにそれを期待するのはやめた方がいいのかもしれないなぁ。

今年は、自分の欲求を相手に上手に伝えられるようになりたい。2018年は勝手に訪れた。エスカレーターに乗るよりも自然に、前進はせずとも移り変わっていけたら。