リテイク

好きな人の声 言葉 映像に触れるにはスマホ越しじゃなきゃできないから、特に最近はSNSを開いたり閉じたりしている。それでも、インターネットはただでさえ開くとかなりストレスが溜まるので、あんまり進んで開きたくはなくて、実際に会いに行ったりCD買ったりDVD買ったり、ネットに集中しないような環境も必要だなと思う。

東京は、好きになってから会えるまでの期間が驚くほど短く、本当に贅沢な場所だ。子供の頃からこんな環境で育った人たちは一体、どんな感覚で生きているのか不思議だ。大学生までは地方、というか田舎に住んでいたので、会いたい気持ちを何年も何年も温め続けて、やっっと会えたー!!うわー!!という感覚が、プロのライブを見るたびに襲ってきて、それはそれで幸せだった。1回のライブで1年は生きていけた。それが、今ではどうだろう。東京に来てからいくつかライブに行ったが、泣くほど感動したことはまだ無い。早速この環境に慣れて、感覚が麻痺してしまったのかもしれないと思うと、本当に悲しい。

金曜日には挫・人間のツアーファイナルを見に行った。そこでもやはり泣けなかった。視界の端っこで、本当にいいライブだったね、良かったね、と言って泣きながら抱き合っている女性2人組がいた。涙が自然に溢れてくるほど感動したライブを見たのはいつが最後だったっけ、思い出してみると、おそらく大学院1年生の頃に見たチャボのライブだった気がする。意外と最近だった。少し安心した。

その会場で買ったDVDを部屋でみる。号泣する。私の感情は、挫・人間の音楽で充分揺さぶられていた。少し安心した。

やはり忘れられないのは、仙台での公演でリヲくんが話していた元カノの話だ。クソみたいな元カノが、最近仙台で亡くなったという話だ。死因は、教えてもらえなかったようだ。人には言えないような死に方だったらしい。その日の下川最強伝説という曲での除霊は、私は初めてのライブだったからわからないけど、いつもより悲しいものになってしまったんじゃないかと思う。

心霊バスツアーに行った際、中沢健さんが、幽霊には存在していてほしい、と話していた。霊がいなければ、僕たちが死んだ後、僕たちの魂は無の世界に行くことになってしまう。それよりも、現世に漂っていられることがわかっていた方が、ずっと幸せなことだと思うから、と。

リヲくんの元カノさんは、世の中に絶望して、絶望したまま亡くなったのかもしれない。怨念が晴れるのかどうか、私は霊的な体質では全くないのでわからないけど、もしまだこっちで漂っているなら、満足するまでライブを見に来たらいいと勝手に思っている。生きているこちら側の人間にはどうにもできないけど、それでもなんとか、なんとかなればいい。死んだ人の気持ちも、死に切れない人の気持ちも、生きてる人の気持ちも。

 

いきるいきる

明日の教育が非常にだるい。もっとたくさんのことを覚えて、これは自分にしかできないと思える仕事がしたい。早くしたい。でもそれには勉強や経験が必要で、だったら教育を受けなければ…という出口のない思考回路に突入しつつある。たとえ1年目とは言え背伸びしたいし、背伸びをし続ければいつか本当に背が伸びるかもしれない。やる気がむくむくと上がっているところに教育がどーん。上げて落とす新しいプレイ…?やってられない、まぁやるけどさ。

みうらじゅんの記事に、仕事を本業だと思わない方がいいと書いてあった。それを読んで、明日は挫・人間のツアーファイナル、明後日は心霊スポットバスツアーに行くことにして良かったなと思った。何かを本業だと決めない。そう思うと、自分の中の仕事に対する熱がグッと下がって、お腹が空いてきた。

自分が好きなものに触れると、他人と自分との境界線があやふやになる。ふわふわしたまま会社に行き、上司と会話し、お客さんに会い、打ち合わせをすると、割と冷静に話が聞けたりする。私が好きなものは、いつだって非現実の世界に連れてってくれる。戻らなくていい。自分だけそっち側にいて、それでも普段の生活にはあまり支障はない。

湯豆腐作って、買ってきたネギトロ巻きと一緒に食べる。好きな人のラジオを聞く。

 

見上げると彼女が見ている

この夜中に、嫌いなあいつも中にいるグループラインの通知、しかもあいつが発信してて、「○○ちゃん誕生日おめでとう!」それみた瞬間鳥肌が立つほどの嫌悪感と、集団に対する苦手意識がぞわわわ〜って立ち上ってきたせいで、せっかくアンナチュラルの最終回見て無事終わって安心して、幸せな気持ちで寝ようとした私の気分ぶち壊された。つーかもう数ヶ月会ってない人から誕生日だけおめでとうされて喜ぶやついるの?そういうのって身近な人に言われるからこそ嬉しいものだと思ってたから、私は正直ずっと会ってない人には、いくら誕生日でも、いや私にとって他人の誕生日はただの平穏な平日なのでそこを私誕生日だから祝えっていうのはまじで暴力だから誕生日なんてよっぽどのことがないと祝えないんだから、全然会ってない人におめでとうなんか言えないし言いたくない。そして言われたくもない、どうしよう3月まであと2ヶ月しかないよー!あけおめ言い合うならまだわかるよ1月だしね、でも誕生日おめでとう!ありがとう!のやりとりに生産性もクソもあるか!強制されるこっちはものすごく不快だ。

本当はこうなるはずじゃなかったのになー。入社前は、女子寮に入るし女の子たちとも頑張って仲良くしようと思ったんだけど、綺麗に完敗した。やっぱ全然わかんないしわかりたくもないしわかられたくもないなー。他人だしなー。グループラインだって特になにも機能しないならまだしも、誕生日だけ言い合う関係ってまじ寒い。積極的に嫌い。

なんか、まただめだった。かと言って自分を曲げて仲間に入るとかは死んでもしたくないから、こんな感じになっちゃうのは仕方ないけど。みうらさんは、集団に対する嫌悪感がすごいって言ってたけど、私も割とそうなんだよな、そうなのに会社に所属しちゃっていいのか私!?!?集団の気持ち悪さって不意に来るから、それに耐えられなければやはり抜ける他ないな。

ただ唯一良いのは、引っ越しに対するやる気が俄然上がることですね!

ファイターレッド

就職してしばらくしてから、赤い口紅をつけるようになった。大森さんが自撮りの写真を載せたとき、赤い唇がすごく可愛く見えた。薄いピンクの服を着たときに自分でも赤い口紅を塗ってみたら、驚くほど華やかな雰囲気になった。ホテルのフロントでバイトしてたときに強制的につけさせられて、それが嫌で嫌で仕方がなかった真っ赤な口紅。今ではそれが、毎日会社へ行く自分のためのお守りみたいになっている。

都会に住み始めて約9ヶ月。私はまだ全然馴染めていない。どこに行っても人がたくさんいて、それだけで疲れてしまってすぐに帰りたくなるので、ゆっくり買い物もできない。ホームと言えるほど落ち着く場所も、お気に入りの秘密基地も、通いたくなる本屋さんも、まだ見つかっていない。候補はたくさんある。お店の方から積極的に立候補してくるくらいだ。でも全然選べない。田舎に来ると欲しいものが不思議と頭に浮かんで、ものがたくさんあるはずの都会よりもたくさん買い物ができる。髪も切りたくなる。外を歩きたくなる。

東京には、これからの人生を一緒に長く過ごしていきたい人がいる。田舎では絶対にできないような大きな仕事がある。それでも田舎には、それらを全て投げ捨ててもいいと思えるほどのじんわりとした安心感がある。親がいるから。

私は、東京から全然必要とされていない。私がそのアクセサリーを買わなくても、他の誰かが必ず買う。私よりももっとセンスが良くてオシャレな人が、その服を着こなして街を歩く。私が欲しいのは、私が手を挙げるか迷っている間に誰かがすぐに手を挙げて欲しがるようなものではなく、私にだけがその価値をわかるようなものだ。東京にはものがたくさんあるから、それだけに求めるもののレベルが自然と高くなる。だから似たような服が並ぶOL向けの店は行きたくない。東京なのに。東京なのに、個性が死んだ服なんか買いたくない。

田舎では、そんなひねくれた気持ちで服を選ぶことがないからすごく楽だ。落ち着いて、楽しく会社に行けそうな服をゆっくり選んでちゃんと買えた。商品がずらりと並んだ都会の駅ビルでは同じ顔をして見える服たちも、田舎なら必要な仕事着として向き合えた。

都会のアパートに帰る新幹線の中でうとうとして、母が運転する車の助手席に座っているような感覚に陥った。私の右隣に座るのは、知らないお兄さんだった。悲しくはない。寂しいけど、悲しいことではない。

明日からは可愛い服を着て赤い口紅をして、会社に行くんだ。

キラキラ

今、長崎のガラス工芸店で買ったステンドグラスの小さなランプを灯した部屋で、ブログを書いている。たくさん種類がある中で、すごく悩んで、黄色とオレンジと水色と黄緑色のガラスが綺麗に重なり合ったデザインのランプを買った。早速灯りを点けてみると、6畳一間の小さな部屋はその灯りですぐにいっぱいになった。白い壁に反射したガラスの色が、羽を広げたトンボに見える。ガラス表面の形状は様々で、模様が入っているものもあれば、色が少し曇っているもの、でこぼこしたもの、それらのガラスが、奥で光る電球の光を透かして、まるで走馬灯のように不思議な光を放っている。

長崎では、綺麗なものをたくさん見た。街そのものが綺麗だった。ヨーロッパとの不思議な文化の融合が、とても新鮮だった。ハウステンボスのイルミネーションには圧倒されたが、平和公園に置かれた平和の像は迫力があった。テレビ越しに見るより、その像の肉体からはとても屈強な印象を受けた。その身体とは裏腹に、表情は穏やかで、仏像のようだった。長崎の街を優しく見守るその像は頼もしく見え、今のこの平和な状態がずっと続くといいと心から思った。

キラキラ光るステンドグラスを見る度に、今回の長崎旅行の思い出を振り返ることができそうで嬉しい。空と海が広くて、良い歴史も悲しい歴史も全て無かったことにはしない、この街に降りかかったたくさんの出来事が、今の現代の暮らしに大きな影響を与えている、そんな貴重な街・長崎を訪れることができて、本当に良かったな。また絶対来たい!

そしてこの旅行を通じて、本当に自分は彼氏としか遊べないなということを強く感じてしまった…。まず、お互い同性に対するコンプレックスが多少なりともあるので、異性であるお互いと一緒にいるのが非常に楽。好きなようにペラペラ喋ってもいいし、だんまりしてもいいし、相手がどんな態度でもそんなに責めることはないので、自由にしていられる。あとは、悪口が基本嫌いなので、陰口大会には絶対ならない。故に相手の話を聞いたことで自分の心が歪むことがない。素晴らしい!他人なのに、こんなに一緒の時間を過ごしてもまた会いたいと思うのは、貴重な存在だな〜と改めて思う。

でも、やっぱり友達はほしいのだ。男女関係なく。あと年齢も関係なく。友達が欲しいから、私としてはすごく丁寧にコミュニケーションを図っているつもりなんだけど、それがいけないのか…?相手の話をちゃんと聞いて、リアクションして、それに関連した自分の話をするってだけだと思ってたんだけど、あんまり友達っぽい関係が築けない…。だいさんは来月会ってくれるらしい。同期の女子とはもう絶望的なのでとりあえず諦めとく。そうなると、私が話したい同期の男の子に声をかけるんだけど、複数人で集まるのは苦手なのでどうしても2人になってしまうし…。でも仕方ない!ちゃんと話そうとすると2人が1番楽なんだし。

旅行に一緒に行ける友達がほしいわけじゃない。ただ、いつ会っても近況報告をし合うことができて、会うこと自体にストレスが無くて、確実に笑ってバイバイできる人と友達になりたーい。

チャンジャ

私はただの社会人なので、誰かと分かり合えなくても、わからないなら死ねばいいで済ませていいんだよな。歌手じゃないし、自分の思想を売ってお金をもらってるわけじゃないから。それでも、なんとかしたかった。彼女に、自分には到底理解が及ばないような人間と付き合うことがどれだけ有意義で楽しいことか、他人を、自分だけの偏見で築き上げた枠に嵌めることの無意味さを、わかってほしかった。彼女の言葉に頷き続けていれば友達でいられたかもしれないけど、限界だったんだ。最近読んだ自己啓発本に、他人軸ではなく自分軸で生きられるようになったら自分の意見を言いたくなる、それを言った結果離れていく人はいるだろうけど、そんな人は所詮そんなものなのだ、そのままのあなたを愛してくれる人に必ず出会えるって書いてあった。まさか彼女が、そうなってしまうとは思ってもみなかった。彼女にとって私は、弱くて馬鹿で、すぐ他人に依存して縋るようなかわいそうな人間としてしか映っていなかったのかと思うと、悲しくて悲しくて、呆れ果てて、失望した。私は友情だと思っていたけど、それはただの同情だったのかもしれない。虚しさしかない。

女友達というのは、男とぶりっ子を嫌いにならなければいけないなんて、人間ってそんなに簡単じゃないでしょう。好きと嫌いが混在して立ち止まったり、それでも愛し愛されたいと思って傷ついたり、文章にすれば大げさに見えるけど、人を大事にするってそういうことだと思う。もし、そんな限定された狭い視野で生きないと友達ができないなら、そんなもん一生いらない。私はみんなを大事にしたい。どこかの関係を良好に保つために、誰かを犠牲にして悪口を言って面白がるなんて、私にはできない。

私は頑張って優しくした。今回うまくいかなったのは、大雨に降られたようなものだ。そういう風にしか人と接することができないから、浅く広くみたいな関係はできそうにない。可愛くないし。愛が重いとかいうけど、お前の愛が軽すぎなんだよ。1対1で、最後までちゃんと向き合いたかった。でも無理だった。ここまでされてもまだ好きでいるなんて、それはさすがにできなかった。できなかったから逃げることにした。

彼女の恋人のたむらさんと、団体でバス旅行に行く夢を見た。たむらさんに、最近元気?大丈夫?って聞いたら、大丈夫だよ、なんでそんなこと聞くのって、理由だって絶対わかってるくせにはぐらかすような、いつもの顔で笑っていた。その笑顔が心配なんだよ、、、うまくいかなくても、必ず幸せになってほしいなぁ。

彼女も住むこの寮から出たくて、彼氏を強引に説得して、2人で住む部屋の申し込みを済ませてきた。彼には、感情のままに勢いで行動するのは危ないから、やめたほうがいいよって言われたけど、これまでの人生大体そうやって方向転換してきたから、その癖をやめろっていうのは無茶だなと思った。彼はいつも正しい。それでもやっぱり、私だって正しい。だって、嫌な記憶が生まれた場所にいつまでも住むのはつらいんだもん。会社はさすがにやめないけど。

同期といても単に楽しいとは思えなくなってきたので、そろそろ新しいコミュニティを探し始めようかと思う。それよりまず、新生活を楽しみに待てるくらいには心の余裕を持ちたい。

眩しい

獣になれない私たち 最終回だった。最初はただのこじらせた恋愛ドラマかと思っていたが、何となく見続けているうちに、少しずつ好きになっていった。最終回を見ていてわかったことは、学生に比べて大人は自分の環境を自由に選べるということだ。隣の喫茶店のウエイトレスのように、自分を取り巻く人々というのは目まぐるしく変わる。変えていいんだ。上司だって替えが効くんだから、仕事が嫌なら辞めることができる。家族が欲しければ作ることができる。引っ越しもできる。

多分もう、誰にも怒られない。高校生のとき、電車に乗っていてふと海が見えたからといって降りられるのは、大学生だけだと聞いたが、大人はもっとその先にまで行ける。海を越えて異国の地に行って、見たこともない果物を食べたり、不思議な光を放つビーズで作られたネックレスに見惚れたり、自分が触れたいもの、見たいものに好きなように近づいていくことができる。大人だって自由だ。

私は、私が1番好きな人でいたい。だから友達を増やしたいとか、スポーツを始めたいとか、そんなことは求めない。プーさんがいつ森に誘いに来ても、すぐに応えて遊びに行けるような人でありたい。大森靖子の信念を持ったまま、会社にしがみつきたい。みうらさんもオーケンも大森さんも、継続こそ成功、キープオンが大事だと言っているので、お腹にいいと聞くキムチを毎日食べたり、えごま油を毎日摂ったり、ジムもちょこちょこ続ける、自炊も、音楽も。その先の5年後、待ってる人と出会いたい。キムチを食べ続けることで出会える人だっているかもしれない。

ちゃんとねむい。ちゃんと終わる。ちゃん。