空気

大森さんがツアーファイナルでPINKを歌って、中間の語りのところでお話しする動画を、大森さんのファンの人がTwitterに上げてくれていた。大森さんは、今までギターを下手に思われるように、わざと直情的に見えるように弾いてたと言っていた。何かやりたいと思った人が自分を見てギターを手に取れるようにって。私はまんまとそれに引っかかって大森さんの曲のコピーをして、スリーフィンガーもアルペジオもできるようになった。でもそれを大森さんの口から聞いて、何となく恥ずかしく思った。私はまだ自分が作ったもので勝負したことがないから。弾き語りをして「すごい」って褒められたいわけじゃなかったし。それはやってみて初めて気がついたことだけど。

大森さんがそう思ってギターを弾いてくれてて良かった。そうじゃなかったら私は絶対、弾き語りやってみようとは思わなかったから。知らない間にすでに救われていたかと思うと、なんかもう、、、

人間関係は自分を写す鏡、という言葉を聞いてドキッとしてしまった。だとすると私が周りにしているのと同じように、挨拶をせず、会話が一言もない、目も合わせない事実に対して納得せざるを得ない。私がそんな適当な態度しか取れないんだから、それ以上に私を大事にしろとは一切思わないし、そんなことは全然して欲しくない。

別に皆のことが嫌いなわけでは全くない。ただただ私が1人でいたい、ほっといて欲しいだけなのだ。人とすれ違うときにも出来るだけ顔を見ないようにするのも、余計なことを考えたくないからだ。人と目を合わせて関係をいざ築こうとした瞬間、あらゆることが煩わしく思えてならないので、必要以上の関係は増やしたくない。必要最低限の人間関係の中で生きていきたいのだ。こんなわがままが通じるのはおそらく学生のうちだけで、だからこう考えてみると今の状況は私にとってかなり好都合だ。近頃は一切私に話しかけてこないゼミ室の人たちに、感謝したくなるくらいだ。

これが社会人になったら、、、と考えるとゾッとする。働きたいけど人間関係は築きたくない、なんてそんなことはあり得ない。多分。あーあ。

どうとでも

時間が一番優しい。なんの働きかけをしなくても勝手に変わっていく。どうあがいても時間にだけは逆らえないし、逆らったところで疲れるだけだ。ただただ身を任せていられる存在が一つあるだけでどんなに救われるか。たった一つの軸の上を同じスピードで進んでいくのだから全生物は平等なはずで、あなたと私が違っていることの方が不思議に見える。

人の幸せなんてどうでもいいよな。自分のことしかわからない。自分の顔を直接見ることは一生できないのに、他人の内面を知ることだって一生できない。私が私としてわかることは一生の中で本当に少ししかないのかもしれない。わかると思ってることも、美味しいとか嫌いとか綺麗とか、結局は体が刺激に対して反応しているだけだ。刺激に対して反応を返すだけがただ息をするということ。

ジブリ映画の次に永井豪のインタビューって、皮肉としか思えないね。

長縄跳び

約2年ぶりに高校時代の部活の友達4人と会った。私ともう1人以外はすでに社会人で、1人は認定こども園の職員、2人は公務員。以前同じように集まったときにはまだ大学の学部生で、正直みんなの変貌ぶりについていけなくて、1人取り残されたみたいでつらかった。そのときの私には彼氏もいなかったし、男の話無しでも楽しく過ごせる大学の友達の方が好きだった。久しぶりに会った元友達だと思っていた人たちは、何となく今の私に近づいていた気がする。それぞれ今の状況に満足してるものの不安があって、友達の数が少し減っていて、家族を大事に思っていて、あとここは少し違うけれど、地元に愛着を抱いていた。前に会ったときよりも目線が合っているというか、多分大人になるってこういうことかなぁって感じだ。下品な話が好きなところはあんまり変わっていなかったけど、そもそもテンションが落ち着いていた。きっとみんなと同じように、私も変わったんだろう。

友達って不思議だ。高校の頃は家族よりも長い時間を共有していたから、共通の話題どころではなく、一緒にいるのが当たり前だった。私は本当に、あのときの部活の同期が大好きだった。でも大学に入って疎遠になって、自分の周りを取り巻くそれぞれの特殊さに浮かれて、話す内容も何となくマウンティング感を帯びていた。友達の数の多さ、先輩との親密度、彼氏自慢、親が離婚したり学科で友達が出来なかったりした私にとって、ずっと友達だと思っていた人たちはキラキラしたディズニーランドに永遠に住み続ける存在になってしまったんだなぁと思って、ひたすら悲しかった。でも大学を卒業して、なる人は社会人になって、私は進学して、いろんな経験をしたんだろう。あの頃幸せそうだった子は、そのときの彼氏に9万円払って別れたと言っていた。学費の高い私大に通っている子は、鬱になって休学したり留年したりで、卒業するか中退するか迷っていた。税金の徴収の仕事をしている子は個人相手だそうで、怒鳴られるのはしょっちゅう、ノルマもあってキツそうだった。認定こども園は振替休日が無く、土日が潰れても平日は通常出勤で大変だと言っている子もいた。

大人になると、きっと状況が似てくるんだ。特別なことが無ければ仕事をするのは必須だし、親は歳をとるし。高校生の頃を第1だとすると、きっと今が第2似ている期なんだ。その後結婚したりしなかったり、子供ができたりできなかったり、学校に入り直したり、海外に行ったりして、また少しずつズレていく。でもそのときは器がもう大人だから、そのずれを補正することは簡単なのかもしれない。次あと何年後に会えるかはわからないけど、そのことを意識せずに幸せになっていたい。

近頃一番腹を立ててしまったことは、超親友のみーさんと家で映画のDVDを見ていて、私が選んだ映画を見ているときにお菓子をすごい音でボリボリ食べられたり、携帯でTwitterを見られたりしたとき。私は映画や音楽においてすごく変わったものが好きなので、それを誰かと一緒に楽しく共有できる自信が全くない。だから逆に、相手が私の全然好きじゃない物を共有しようとしてくるときにはものすごく気を遣う。自分が好きな物を言ったら相手からドン引きされたり、話を逸らされたりした経験があるから、相手には同じことをしたくないとどうしても強く思ってしまうのだ。そうなると結局、誰かと何かを鑑賞するときには相手が見たいものや好きなものにするに限るし、それが一番楽だ。しかしそうとは分かっていても、親しい相手に対するハードルは自然と高くなっていくもので、私が好きな物もちゃんと真剣に向き合ってこその特別な関係だと思うし、超一方的に私が気を遣う状況っておかしくない!?と理不尽さを勝手に抱え込んでしまうので、何も訳を言わずにただただ不機嫌になって怒ってしまうんだないつも、、、。でもやっぱりだめなのかと思う経験もなかなかつらいし、つまんないならつまんないって言って欲しいし、それを、相手は無意識なのかもしれないけどお菓子や携帯を使ってアピールされている気がするのは耐え難い。しかも大概が「勝手な思い込み」からくるつらさなので、なんかもう、誰に怒っていいのか、それはそもそも怒りなのかもよくわからなくなって、いつも困ったことになってしまうのだ。相手に、自分の好きな物を共有するには私が一番いいと思って欲しいけど、逆はやっぱり無理なんだな、私の趣味が変だから。

それを何の気兼ねもなく共有できるのは母親だ。親であっても、地球上でそんなことが可能な人間が1人いることは心底ありがたい。

昨日は大晦日だったので、毎年のように母の実家で紅白歌合戦を見た。今年は母も私も大好きなエレファントカシマシが出場することになっていた。テレビの前でiPhoneを構え、写真撮影や動画撮影に余念がない母。思い切り喜べて良かった。エレカシの出番が終わって祖母が一言「どこがいいの?あまりに普通だったけど」。多分このたった3分間の演奏を聴いて、分かる人には分かるし、わからないなら多分一生わからないんだろうなと思った。そのくらいかなり真剣に演奏を聴いている私や母からすれば、それは神経をテレビの画面とその音に集中させないと拾えない魅力なんだろうし、そうやって見てると紅白もなかなか面白い。真剣に聴けば聴くほど好きになるものが増える音楽ってすごい。CDは買わないかもしれないけど、印象に残った歌手やバンドもたくさんあった。

と、実家の雰囲気は、その姿勢からしてすでにズレている(私と同じような感覚を持つ母が、その家で20年近く過ごしてきたことを想像すると、正直ゾッとする…)。それはでも、たった年一回我慢して、私と母でわかったところを話し合って笑えればそれでいいのだが、自分が家族を持ったときに毎日このズレを感じ続けるのはつらいと思う。でも求めていることは割と普通のことで、一緒に何かを見たり聴いたりしているときは、こっちがそれを好きなんだということを念頭に置いて欲しいというだけなのだ。それに基づいた行動を相手なりに取ってくれるだけで、安心感はだいぶ変わってくると思う。それでもやっぱり無理かもしれないので、みーさんにそれを期待するのはやめた方がいいのかもしれないなぁ。

今年は、自分の欲求を相手に上手に伝えられるようになりたい。2018年は勝手に訪れた。エスカレーターに乗るよりも自然に、前進はせずとも移り変わっていけたら。

霞む

恋人のうちはキラキラして見えるのに、家族になるとそれが褪せていく気がするのはなんでだろう。できるならキラキラした噂で留めておいて、本当の人物や性格なんか一生誰にも知られたくない。本物の下世話な噂話の対象になるのが正直こわい。懐の広さとか大らかさとか、良いところは私が一番よく知ってるから、誰にどんな目を向けられても構わない、と強く言える立場になりたいし、立場じゃなくても、ただ存在だけでも、あり続けたい。

逆行

今にして思えば、中学や高校がこれまでで一番ブラックだった。課題をこなしても部活に毎日行って練習してても訪れることのない安心感を求めて、ひたすら5:00に起き続ける生活。何かをきちんと終わらせても休めない、休んじゃいけない空気。大学生になったら、ニュースでは残業時間何百時間の会社が告発されたとか、働いた時間で評価される時代は終わったとか、これまでやってきた頑張り方全てと真逆な方を世間は求めていたということがわかった。ほんとは皆そういう過ごし方は嫌だったんだ。だったらどうして最初からそうしなかったんだ?教育のはじめの方から、適度に休憩を取ることの必要性、家族と団らんする時間を割くことの幸福について、もっと教えても良かったんじゃないか。私は大学院を卒業する年齢になってもまだ、そのような自分の経験と世間の流れのギャップの違和感が拭えない、どうしても。