私は私よ 心があるもの

今週の土日は実家で過ごした。理由としては、日曜日が母の誕生日だったことと、木曜日に産まれたばかりの従兄弟の赤ちゃんの動画が母から送られてきて、それに対して謎の劣等感しか抱けず「幸せそうでいいね」としか返事ができなかった私の心に強い不安を抱き、実家でのんびりすることで少しでも自分を取り戻そうと思ったからだ。金曜日、思い切って行った飲み会では惨敗で、しかもやりたくないのに任されてしまった幹事の役割から逃げたくて集金を後回しにしてしまった結果、月曜日にそれをやらなければならず、ああああもう全部投げ出したい!!!と気持ちが超荒んでいたので、土日は逃げることにして大大大正解なのだった。

平日にやりたいと思っていたことを全部やった。冬靴とコートを持ち帰ったし、向こうでは小豆とみたらししか見つからず、ずっと食べたいと思っていたゴマだれの串団子を食べたし、新しいものも買ったし、髪をばっさり切ったりした。普段モノが溢れた都会に住んでいても、欲求が無いと何にもならないのと同じで、逆に何もない田舎でもやりたいことがあれば割と叶うもんだなと思った。平日は無気力に過ごしていると思っていたけれど、場所を変えると案外ほしいものが思い浮かんだり、やりたいことがあったりするのだ。

本屋さんで、「7日間で自己肯定感を上げる方法」という本を買った。そういう本を買おうという気になるのも、都内で暮らしているとなかなか無い。人の流れの多さや、音の大きさに疲弊して、どれだけ普段全てを何となくやり過ごしているのかがわかった。その本は7日間どころか、およそこの2日間で読み終わってしまうくらい内容がシンプルで、わかりやすかった。普段母からよく言われていることをまとめたような内容の本だったから、なおさらわかりやすかったのかもしれない。内容を簡単に書くと、自己肯定感が低いために、他人の顔色や周りからの評価ばかりを気にして「他人軸」で生きている人が、好きなことを好きなように取り組むことができる「自分軸」で生きるための方法を教示するものだ。その本を読んでみて思ったことは、「案外私も自分軸で生きられているな」ということだ。すごく些細なことだけど、頼まれたことを断ったり、行きたくないと思った場所にはもう行かないようにしようと思ったり、ちょこちょこできていることもある。ただ、それこそが自分軸で生きること、という意識を持ったことが無いので、そういう行動こそ私の意思だったのかと新しい気づきを得た。明日からは、嫌なこととか、苦手なこととか、やりたくないことをもっと大事にしようと思った。

その本では、苦手なことをやらざるを得ない状況になって、もし失敗してしまったとき、自分の後輩が失敗して落ち込んでる時にかける言葉と同じことを、自分に言ってあげましょうと書いていた。まさに今の、苦手な幹事を引き受けてしまったがために、集金のタイミングを誤ってしまった私のことだなーと思った。だからとりあえず、「苦手でやりたくなかったことなんだから仕方ない。集金のことを考えることが嫌だったんだから。とりあえず今は、自分が立て替えた分を返してもらって、次もしも幹事を任されそうになったら断ろう」と言ってあげようと思う。母も同じようなことを言ってくれた。その本を読んで、母の言葉が改めて身に沁みた。

あとは、自分が好きなように行動した結果、人に嫌われても仕方ない、という気持ちを久しぶりに思い出した。自分軸で生きることにしたことで、離れていく人がいる一方、その方がいいと言ってくれて近くに居続けてくれる人がいることも確かだ。さっきまでは幹事を断ることが考えられなかったけど、今では断るための文章が頭に浮かぶ。「これってまた私が幹事をやる流れですか…?本当はすごく苦手でやりたくないので、誰かにお願いしたいんですけど…」って、どんだけ幹事についてぐるぐる考えてるんだ私。よっぽど嫌だったんだな…。自分でも気づかなかった。

この本には、「私は私」っていう言葉がちょこちょこ出てくる。大森さんの歌詞にも、よく見られる言葉だ。私は、部屋でパーティードレスを歌っていると大体号泣してしまうのだが、いつも心に強く響くのは、「私は私よ 心があるもの」という一文。今思えばそれは、自分の気持ちを押し殺しがちな毎日の中で、その歌のその部分だけが、私の本当の心の叫びを素直に表現してくれている、大森さんだけがその気持ちを歌にしてくれていたのだ。その本を読むまで気づかなかったけれど、ずっと素直にそう思いたかった。良いところも悪いところも、ああそれが、どうしようもなく私なんだった、って思いたかった。

こんなに、自分の故郷に感謝した日はなかった。生きていく上ですごく大事なことに、たくさん気づくことができた。それを得られたのが、ものが溢れた都会ではなく、何もないけどゆったりした地元だったのは皮肉か?素敵な家を買って、落ち着く空間を作ってくれた母に感謝だ。

時間は作るものじゃない、絶対に。いつだってそこにあるものだ。だから自然に、何かやれる感じになったら時間に乗ってそれに取り組んだらいい。無理矢理そこを空けてねじ込むのではなく、ちゃんと準備をして吟味して、行けるぞって思えたらどこかに行こう。やっぱり都会でも、音楽をやってる知り合いを作りたいな。自分がバンドを組むとかではなく、とりあえず音楽好きで趣味が合う友達を作りたい。そのために、小さいライブハウスに行こう。いつ行くかは決めずに、それをやろう。久しぶりに少しだけワクワクした。

しねとはいわないが

幸せに決まった形なんてない、いつか絶対幸せになってやる、っていうかもう十分幸せなのに、それは違う幸せの形はこうだって見せつけてくるやつの多さよ。それはマウンティング?なんで私が不幸だって決めつけるんだ?私が暗いから?しゃべらないから?大人しいから?ライブ行って誰かと知り合う気なんかねーんだよ、ライブ行ったらその音楽をただひたすら全身で聴いて、浴びた感動、幸福感を全部全部持ち帰って、それらを次の日からの装備品として身につけて生きていくことしか考えられないから、そこで友達作りとか意味わからん。お前らの幸せの方がつまんない。友達たくさんいて、遊び歩いて、旅行して、お金なくて、でもそれを誇らしげに話してるときのお前の顔気持ち悪いよ。挨拶もまともにできない、若いくせに偉そうで、周りの人をちょっとバカにしたような態度割とまじでむかつくよ。私よりお前らの方がずっと縛られてる、無理してるように見える。幸せのあり方はいつだって自由だ。時間は作るものだって、どの口が言ってんの。お前は使った時間で遊んでるかもしれないけど、私だって同じように作った時間で料理したりジム行ったり、私なりに過ごしてるんだよ。それを一欠片も想像しようとしない。きっとそんなこと考えたことないんだろうね、自分にとっての幸せは、世間一般に言われるような普通な、孤独じゃない、それの近似値叩き出してるからって偉そうにしたんじゃねえよ。大したことねーよ。

とかって頭の中でうちの若手の先輩たちを泣きながら殺してたら、彼氏から電話がきた。今日これからそっち行くからって。私にとっては、世界で1人だけ、正確に言えば2人、私のことを1番に考えてくれる人がいることが、1番の私の人生での価値だ。

明らかに色が違うんだ、私だけ。でもやつらには、大森靖子の音楽なんか必要ない。おはよーの価値も知らない。そんなのに、なんで私が疎外感を感じなきゃいけないんだ、どうして遊んでる時間が多いほど幸せっていう比例関係が成り立つような気がしちゃうのか、絶対違うだろ。私だって遊んでる、人に言って色褪せるのが嫌だから言わないけど、確かに楽しい記憶だってちゃんとあるのに。結局、声のボリュームが大きい人の言葉ばかりが蔓延する。それがメジャーだって祭り上げられてるだけで、それが普通だって勘違いしてるやつばっかだ。

久しぶりに、悔しい気持ちを思い出した。悔しかったから楽器の練習に没頭して、勉強に没頭していた頃の私を思い出した。あいつらより価値のある人間になってやる。それはちゃんと、世間的にも、みんなが認める価値を持った、必要とされる人間になる。悔しい。今はまだ何にもないけど、いつか絶対手に入れる。私にしかできないことを見つけて、誰も何も言えないくらい、実力でねじ伏せられるくらい強くなる。私は変わらない。意地でも染まらない。私は、私が正しいと思った態度で人と接する。あんな人たちに、合わせて生きていくことの方が不幸だ。

スタバ

最近また、絶不調な毎日が続いている。こんな文を書いていることが隣に座っている人にバレたらどうしようと、不安になりながらも、京浜東北線南浦和行きの電車に乗りながらブログを書く。自分の気持ちを書くなんて、楽しかったー☆☆みたいな頭空っぽな文章も、鬱々クサクサした文章でも、どっちにしろ根底にはナルシズムが沈んでいるのだ。私のことなんてもう考えたくない!重過ぎて、ちょっとしたことでふわーっと生きていけない気持ちの渦に入っていく。死にたい絶望って、ずーーんっていう重みがくるんじゃなく、逆にふわふわと体が浮くような、そしてそのまま死ぬ方向へ考えが持っていかれる感じがする。なんの理屈もない。なんの理屈もなく、生きていくのが自分には到底無理なああもうできないという無力感に優しく包まれる。その感覚から逃れたくて、今日は母からの話にあった遠藤ミチロウに想いを馳せてみることにした。少しでも意識を私から遠ざけるためだ。生のミチロウを、私は見たことがない。けれど、夏の魔物で、ミチロウ抜きのミチロウバンド、羊歯明神の演奏を見たことがある。凄まじいエネルギーだった。力強い演奏、雄叫びのような激しい歌、そこには、生きている人間の漲るパワーがぎゅうううっと詰まっていて、気がついたら手を伸ばしていた。この演奏者たちを率いる遠藤ミチロウは、この中の誰よりも強くて大きな音楽を奏でるんだろうなと思った。そんな、遠藤ミチロウ膵臓癌が見つかったらしい。「遠藤生き霊」ではなく、本物の歌をぜひ聞きたいので、元気になってほしい、ミチロウ。きっとオーケンも心配してるんだろうな。全く世代じゃないのに高校の頃スターリンのコピバンからバンドを始めたリヲくんも悲しいだろうな。他人のことを想像するって、こういうことかな、おかあさん。

明日は会社の飲み会がある。私の頭の中では、行きたい、行きたくないがグルグルと頭の中でせめぎあっている。私を人数に含んだ数で予約確定をさっき済ませてもなお、本当にこれで良かったのかずっと考えている。私は今、というか相変わらず、若手と呼ばれる年代の人たちと馴染めないでいる。私以外の若手の人たちが連れ立ってコンビニに行ったり、休憩しに行っているのを見ると、激しい疎外感を感じる。こういうことを下手に他人にいうと、さきちゃんのように「機嫌が悪い」とか思われ兼ねないので、完全に持て余してしまう。またこうやって自分のことをぐじぐじ考えている!自分を自分の脳からひっぺがしたい。

大学の頃からずっと、なんとかしたかった。もっとかわいく笑って過ごせば良かった、もっと周りの人のこと好きになれば良かった、って、何回も思った。それでもなんか怖くて、居場所がなくて、研究室から逃げてトイレとか彼氏の部屋とかずっと逃げ続けていた。暗い、人生を明るく生きたい、とは思わないけど、楽に生きたい。

ソリッド

言い争うことなんかない、仲良くすることだけ考えればいいんだ。わかってもらえた、もらえなかった、通じた、通じなかった、片思いだったとか、相手の受け取り方までは私の支配領域には無いんだし、こればっかりは本当に仕方ない。自分の全部を相手にさらして、それでもただ苦い顔をされてスルーされても、これまでもそんなことばっかだったから、多分諦めるか不感症になるか、一番は自分から傷をつけるようなことしなくても承認欲求を常に満たすことができていればいいんだろう。ただその境地に達するにはまだ私は若過ぎて、達観できないし、それでもいつか、悪趣味を誇るのではなく全てを許して受け入れてあわよくば好きになって、自分が一番幸せな状態を環境を作り上げたいのです。

細かくいろんなイベントをチェックして、予定を立てていろんなもの予約して、そんなコツコツした準備をすることすら無理なのに、そりゃ引越しなんて到底できないなーと改めて気づく。みんなすごい。ネット見てると、遠征しまくってる人とか、1日にいくつも現場に行ってたりとか、会ったこともない顔も見たことない人達のバイタリティに勝手に圧倒されて、それができない自分が勝手に浮き彫りになってつらいから、ツイッターはインストールと削除を繰り返している。最近また入れてみたんだけど、やっぱなんか見てるのきついし、ツイッターは私の発散どころではないのでただただ情報をインプットするばかりで、一方的に勝手に傷ついたり誰かにレッテル貼ってみたりして、またそろそろ削除しようと思っている。本当は全部他人事だから、私は私のことで精一杯な状態が多分正解なんだけど、他人の動くばっかみてると自分の行動がぬるく見えてしまう。

自律神経失調症を患ったオーケンは、生きることとは関係ない無駄な知識を収集しているとき、安定しているそうだ。その言葉通り、オーケンはエッセイの中でとにかく武術に関する本をたくさん読んでいる。私にとっても読書は確かにすごくいいかもしれないと思い、最近は本を数冊買った。オーケンは、どんなに精神が不安定でも、テレビに出たり、ライブに出たり、要は仕事をきちんとこなしていたようだ。そのくらい、オーケンはそれらのことが向いていて、だからこそ仕事として続けているのだろうと思った。はて私に向いていることとは、、、?バイトしてた頃は、どんなに調子が悪くても接客は好きだったなぁ。あと楽器の練習も好きだった。大森さんは、君の好きなことが君に向いてることだよ、って言ってた。私の好きなことって言えば歌とか、料理とか、裁縫とか、って全然今の仕事につながらないじゃないか!!強いて言えば接客… でも電話応対ではよく、親切にありがとうございますって言われる。24歳にして、まだまだ思春期みたいなこと思い続けなきゃいけないのか… それとも、道筋が10代ほどはっきりしてない分、今の方が悩みが多くて当たり前なのかもしれない。明日は1日暇だから、新宿に行って大森さんの展示でも見てこようかな。とりあえず来月までは死ねないので、なんとか生きよう。

たわわ

挫・人間のインストアライブに行ってきた。ドラムなし、アンプなし、返しはあったけど、ステージの後ろにはでっかく「アイドル」の文字。本当にここでライブやるのかな… 場所間違えたかな… でもさっきから大音量で流れているのは間違いなく挫・人間の新譜だしな… と思いながら待つこと約45分。サポートドラムはおらず、メンバーの3人が楽器を持たずに登場。挫・人間のライブは結構振りが多いので、前から2列目にいた私はかなり不安な気持ちに。周りの人達全員狂ったように完璧な踊りを披露し、振りを全然覚えてこなかった私は、まるで宿題を忘れた小学生時代の頃のような罪悪感を抱えることになったらどうしよう、、、 関係ないけど、最近チーズ味のスナック菓子を食べようとして、食べる前に匂いを嗅ぐと、ものすごく嫌な記憶が蘇る気がするのはなぜなんだろう。

曲中、いきなりみんながパラパラを踊り出したときは流石についていけなかったけど、それ以外はなんとか踊れた。間近でみたリヲくんは小柄で、首元に黒いリボンがついた白いブラウスを着ていて可愛かった。確か2つしか歳が変わらないはずだが、もっと年上に見えた。貫禄あったなぁ。

僕を滅すると書いて僕滅。みうらじゅんが言う自分無くしって、私の人生にもすごく必要なことだと最近すごく思う。それって、食べたいものを聞かれた時に「なんでもいいよ〜」って適当に答えるようなこととは違う。そういう目の前のことに対する希望を特に持たないということではなく、「わかってもらえなかった」という気持ちを持たないようにすることかなと自分では理解している。相手が受け取った私の気持ちが、私にとって不本意だったとき、それを説明して正そうとしたり、そういう受け取り方をする相手を責めたり、そういうのをやめようってことだと思う。

ただやっぱりわかってもらえないのは結構キツイし、「そうじゃない」っていう相手に対するエゴがあるのはつらい。そういうのを受け入れてくれるのが私にとっては音楽だ。極端で理屈っぽい音楽が好きだ。私のわかってもらえなさを現実の人間に差し出して受け取ってもらえなかったものでも、音楽の中でなら消化されていく。変な人のまま愛されていたい、トラウマなんか何一つ克服できなくても幸せでいたい、その気持ちを、私が好きなミュージシャンは肯定してくれる。

挫・人間も例外ではない。新しいアルバムの中の一曲に、「ごめんね それでも未来が好きです」みたいな歌詞があって。私は好きな音楽とか映画とか、人生における悲しみや苦しみに焦点を当てたものが多いから、生きることに対して絶望し過ぎてると思われがちなんだけど、それはいつもそうじゃないんだよなぁと思いながら相手の話を聞いている。手続き1つ、もしくはその前段階でつまずいちゃうし、すぐ死にたくなるし絶望するし、一番好きな人に対する態度とかもなんかよくわかんなくなったりしょっちゅうだけど、それでも「次こそは」って思わないと生きていけないし。迷惑ばっかかけるけど、相手が私に「次」を提示してくれる限り、頑張りたい。

挫・人間のライブDVDも見たけど、最後、みんな大ニコニコで、それだけでそのライブの良さが伝わってきた。音楽で救ってやる!!ではなく、今も現在進行形で音楽に救われている人が提示する音楽で、私も一緒に救われたいと思ったら、それはもうかなり好きになってしまっているんだろう。仙台のワンマン、土曜日だし行こうかな…。

 

だちょう

昨日は高円寺フェスで、みうらさんといとうさんのトークイベントを見に行ったから、楽しい1日だったはずだ。なるはずだった。8時間は寝たのにひどい寝不足で、トークイベント終了後、頭の前の方がガンガン痛み出して、目を開けているのが辛くなって、夜会う約束をしていた彼氏にラインやら電話やらでひどい八つ当たりをしてしまった。彼は私と会えなくても1人で充実した時間を過ごせるのに、私は晩御飯も食べれなくて、ちゃんと1人で過ごす時間を使いたいのに使えないのが情けなくて悔しくて悲しくて死にたかった。高円寺フェスは1人で行った。だから私は1人でもイベントを楽しみ尽くせるぞっていう自信をつけたくて、激混みのカレーイベントに行ってみたり、普段は興味のないスタンプラリーに挑戦したり、結局時間がなくなって最後まで果たさなかったり、私なりに時間を有効に使ったつもりだった。でもそれは、どうやら自分が思っているよりもずっと心身に負担になっていたようで、彼との些細なやりとりの中で突然爆発させてしまった。制御不能になってちりのようにバラバラになった私の感情はさっきまでの楽しかった大好きな2人のおしゃべりの内容を吹き飛ばし、後悔と申し訳なさと悲しみでいっぱいになってガンガンガンガン痛む脳みそを抱えながら川崎のアパートに帰った。この後悔はすごく深い傷になる。どうして楽しいまま帰れないのか、一番好きな人に暴言を吐くのか、自分が人間ではない恐ろしい化け物になったような気がした。もういっそ化け物になって嫌われるならそれもいい。

そんなわけで、みうらさんといとうさんの話の内容はあんまり記憶できなかった。それでも楽しくてたくさん笑ったのは覚えてる。あと2人の声も。2人とも、ラジオで聴くよりもずっとはっきり言葉を発音していて、いい声だなーと思いながら聞いていた。なんとなくテレビも見れないし音楽も聴けないとき、2人のおしゃべりに何回も助けられたから、生声を聴けただけで正直十分だった。みうらさんが用意したスライドには、色鉛筆で描かれた岩木山の絵も混ざっていて感動した。私が弘前で一番好きだった景色。みうらさんは今まさに山ブームがきているらしく、そのタイミングで岩木山を見てくれて嬉しかった。

高円寺フェスに行く直前、みうらじゅんが出た土曜スタジオパークの録画を見ていたら、番組の最後で視聴者から、「みうらさんはいつも自然体に見えますが、どうやって仕事のやる気を出しているんですか」という質問が読み上げられた。それに対してみうらさんは、「いつも真面目に不真面目なことをやるということしか考えていません。だから自然体っていうのはやめてます。レッツゴー不自然体で仕事してますから」と答えていて、思わず泣きそうになってしまった。そうだ、私も不自然体でいて正解なんだ。自然体の自分がどんどん見えなくなる、不自然な振る舞いをして、しっくりこなくて、それでいいんだなぁ、だってそれは仕事だし、人と対面するのであればある程度自分を作るなら当たり前なんだし。誰かとうまく時間を過ごさなくて、あのときああしていたらもっと楽しかっただろうにとか、これを言えばもっと笑ってくれたかもしれないとか、そんな後悔はせず、ギクシャクしてしまったのは仕方ないし私はレッツゴー不自然体で生きていく、このままの自分じゃとても外ではやっていけない、だからせめて仕事をするに困らない自分で明日も寮の扉を開けて会社に向かう。

 

どっちの道を選んでも不正解。正解ではなく、どっちも不正解。そんな究極の二択に、生きている中でぶち当たるのはそう珍しいことではないけど、今は割と大きな問題で二択どちらが選ばなくてはいけなくて、つらい。引っ越すか引っ越さないか。彼と一緒に住むか、寮生活を続けるか。未だに迷っているけど、それは彼には言えない。言ったけど、うまく説得できなかった。ひどい閉塞感。まるで生きてることさえも行き止まりで迷うように、行き詰まっていることに気づかされてしまう。今の部屋をもっとこうして、私が気に入るように工夫する元気はない。毎日食事を用意して、洗濯してお風呂に入って寝ることで精一杯だ。そんなんで彼と暮らしてやっていけるのか、家賃がいきなり5倍近くになってそれをこの給料で払っていけるのか、不安でいっぱいだ。それでも間取りを見て生活を想像するのは楽しいし、なんとかごまかして部屋探しを続けている。何事も気楽に、楽しんでやっていけたら、どんなに楽かという問いは、できるわけもないので私の人生には無関係だ。

とにかく早く歳をとりたい。経験がないから選択肢もない。みんな同じ空の下でーみたいなJ-POPで泣けたら、私も不感症になって何も考えずに生きられるのかもしれないけど。もう自分のどこも変えたくないし、変えられないのは十分わかったし、それを肯定してくれる音楽は間違いなく存在するのはわかっている。だから生きる。1人で生活を営めるくらい、強くなるために、働く。

きつね

今月も無事に婦人科に行って処方箋をもらって、薬局で薬をもらえた。これで来月も生きていられる。一安心だ。

スマホケースの裏に大森さんの写真のシールを貼ったんだけど、いつの間にかすっかり消えてしまった。大森さんは気まぐれだから、ハリーポッターに出てくる額縁に飾られた絵のように、シールの中にいながらどこかに行ってしまったようにも見える。少し寂しいけど、大森靖子アプリを開いて、公式ツイッターのリンクから、小さい窓だけど少しだけ大森さんの様子を伺うことができる。最近は会社のトイレで10:00頃それを開いて、おはようの挨拶文を読むのが日課だ。大森さんの語彙力は無限だ。もちろん毎日違う文で、その上どれも印象に残る、1日限定で効くお守りのような力を持った文。そして次の日も、もれなく新しいお守りをくれるのだ。とても心強い。

最近は挫・人間をおかしくなるほど毎日聴いている。だいさんからもらった音楽データの中の一つなんだけど、ハマりすぎて次の音楽に進めないほど好きになってしまった。こういうのほんと久しぶりで、はっぴいえんどの風街ろまんもおかしくなるほど毎日毎日聴いていたけど、多分それ以来ハマる音楽ってほとんどなくて、しかもちょうど同年代の人の音楽にハマったのは初めてかもしれない。ここがいい!とか、この人がすごく魅力的!とか、はっきりとした好きな部分が正直まだピンときてないんだけど、イヤホンを繋いだらとりあえず挫・人間を流してしまうので、多分好きなんだろう。多分。

ボーカルの下川リヲは二つ上だ。そして、ナゴムレコードから出された音楽が好きだったらしい。そして、筋少の大ファンで、あとは多分TOMOVSKYも好きなはず。過去の下川くんのブログを読んで、トモフのSKIPという曲の歌詞について触れていて、大感動してしまった。私も高校生のとき、 SKIPをすごく聴いていて、順応ってなんだ!!それ本当に必要なのか!?って歌うところ、つい周りに合わせてしまいがちだった自分に問われている気がして衝撃的だったのを覚えている。

私にとって、好きになって追いかけるようなミュージシャンやバンドを一つ増やすことは、言葉を選ばずに言うととても面倒なことだ。私はその人の人柄ごと音楽を好きになることがほとんどなので、好きな人が演奏している音楽じゃないと聴けない。若い人の音楽も聴かなきゃと思いつつ、ヘラヘラしたオシャレバンドの曲はあまり聴きたくないし、だからこそ、一周してもう成熟しきったバンドやミュージシャンを好きになることが多かった。そして、そういう人たちの若い時の音源を聴いて、こういう悩んだ時期もあったんだとか、このときは歌でこういうことを言っていたんだとか、昔を掘り下げていくのも好きだ。挫・人間は、人柄としてとても好きだ。しかも私と趣味が合う。だからなんとかく、打ち込みの音色とかバンドの音とか、私が好きなものにとても近い。そして下川くんの歌い方がちょびっとだけオーケンに似ている、、、オーケン好きなのは母だと思っていたけど、私も相当好きになったんだということに、挫・人間を聴いていて気づいた。少し舌ったらずで高い声で、歌ではシャウトと語りが多くて、面白い。安心して聴ける。こういう音楽が好きな人が作った音楽だから、私もちゃんと好きになれる。