雨上がりの夜空に

寂しさを癒してもらうことを理由に人と会う約束をしても、相手がいくら親しい相手であってもろくな結果にならないことはこれまでの経験で何度も痛い目に遭っていてわかっているのにそうしてしまうのは本能なのだろうか。つらいときこそ人を頼れっていうのはなんて無責任な言葉なんだ。つらいときは自分が一番つらくて正解だし、それを相手にわかってもらう必要は無いと思うし、共有する必要もないと思うし、そういうの全部ナシって思っていてもやっぱり誰かに慰めてもらいたいし気分転換という名の時間の浪費に付き合ってほしい。大事な人ほど会うときの私は万全の状態にしていたいけど、無理だった!!私をその状態に持って行きたかったけど間に合わなかった!!不完全な私でごめん!!でも一緒にいてほしい!!っていうのを、喧嘩を経由してでもいいから心ごとわかって側にいてくれる家族はまじで聖人。苦手なことをわかってあげられなくて気づけなくてごめん。かわいくてもいいしかわいくなくてもいい。

広告を非表示にする

安い日焼け止めの匂い

泣き虫の直し方を検索しても我慢せずに全て出しましょう的な解答しか得られず、こればかりは自分でなんとかするしかないんだなと痛感した。大概は月一で起こる体内のバランスの急激な変化が原因なんだけれども、10代の頃からずーーっとこれに振り回されている。考えられるあらゆる不機嫌の理由の根源を辿っていっても結局誰も悪くなくて私が自分を上手く扱えていないだけだということにぶち当たって、それはもうその一週間が終わるのをおとなしく待つしかなく、どうあがいても終わりの見えない絶望とそれを無理矢理にでも終わりにすることすらできない自己嫌悪と、リアル夜な夜な夜なみたいな状態に陥る。好きな人と同じ部屋に帰れたら会う度にさよならしなくてもいいのにと、幸せな週末を過ごせば過ごすほど早く社会人になって輝くような平日を手に入れたいと思う。

天井

振りかざしたわがままが愛すべき退屈を壊していく。コミュニケーションに勝ち負けを求めれば誰でも敵にできるし誰も生活を共にはしてくれない。BLに見出した人間愛には限界がある。男女の愛だって尊いほど純粋で人間社会に不可欠なものであることに変わりはない。自分の中にしかない精神世界と現実をどうにか手縫いで繋ぎ合わせてもどちらかに引っ張り込まれてバランスが取れない。人間の毎日は締切日に必ず更新されて次回につづくわけではないから、自力でその日の色を塗り替えていかないといけないね。どこにいてもあの人のいびきを聴き続けることはできるかしら。

広告を非表示にする

ジグソーパズルにも似た地道さ

家事の中でも料理は特に長続きしない。掃除や洗濯とは違って質の幅がとても広く、落とそうと思えばいくらでも落とせるし、自分さえ良ければ省くことができる。でもきちんとした、野菜やお肉やお魚をバランス良く使いしかも美味しい料理が作れれば、他のどんな家事でも得られない元気を手に入れることができる。自分に対して全く興味がない日はまともに料理が出来なくて、自立した生活を送れているという自信が根本から崩れてしまう。下手にやろうとすると火を消し忘れたりこぼしたり、ろくな結果にならない。何を作るかを決める→自分で材料を選ぶ→手と頭を動かして効率良く手際良く作る→美味しい→元気!みたいな手順がいつももれなく踏まればいいのに。

紫ピクミン最強説

大人になったら仕事を一生懸命やりたい=趣味を持たないつまらない人 という方程式は一体どういう思考回路の結果そこに行き着くんだろう?といつも不思議だ。大学生は当たり前だが仕事をしてお金をもらうことの実感を得る機会がない。学生アルバイトを募っているようなよくある飲食店はアルバイトのサークル化を黙認しているところばかりで、実際は多分そうしておいた方が連絡やらシフト調整やらが何かと楽だから敢えてそうしている部分もあるのだろうけど、もっとドロドロした人の営みと自分が与えられた仕事との関係を肌で感じるような経験はそんなチャラチャラしたバイトをしただけでは得られるはずもない。仕事をするということがいかに人の人生を左右することか、それゆえにどれほどお客さんのことを想像して考えなければならないのか。そしてそれだけ自分の仕事は人の役に立つ意味のある仕事だということをきちんとわかった上で働いたいる人は、今の社会人にもそう多くはいないような気がする。私だってもちろん会社員の経験はゼロだが、このことは物事の目的から人間関係を差し引いて初めて見えてきたことだと思う。会社で親友を見つけたいだなんて、目的の勘違いにも程がある。

広告を非表示にする

空いてる電車でも大荷物は棚に置く

今もそんなに好きではないけど、子供の頃は写真が大っ嫌いだった。ずっと太っていることがコンプレックスで、そのことで今で言ういじめっぽいこともされていた。おかげで小学校の高学年の頃はぶかぶかのスキーウェアをかなり暑い季節になっても常に着ていて、薄着をして腕を出したり体の線を少しでも見せたりすることが極端に嫌だった。洋服やおしゃれにも全く興味が湧かなかったし、太っているのが嫌だとは思っていたけど痩せる努力も特にしなかった。

何かの弾みで、母と自分の小学校から高校までの写真を見返した。心屋先生が、記憶は思い出す度に毎回更新されているから内容がどんどん変わっているって言ってたけど、それは本当かもしれないなと思った。中学生、高校生だった私は、今ではとても考えられないけど、陰湿な女子の集まりの代表格にもなり得る吹奏楽部に所属していて特に目立つ自己顕示欲を存分に発揮できるトランペットでソロパートをたくさん演奏していて、卒業式では友達っぽい人たちとちゃんと笑ってフレームに収まっていた。その頃の自分の顔はどこにでもいる普通の中学生と何ら変わらない様子で、ピンク色の太ぶちめがねをかけて長い髪を二つに結んでいた。あの頃は眉毛はボサボサだしアイプチもしてないし制服のスカートは長いし自分が入学前に思い描いていた中学生像とはあまりにかけ離れたダサダサな中学生だと思っていたけど、今振り返ってみれば皆どんぐりの背比べで同じ制服、同じ髪型をした中でなんとか自分の個性を浮き彫りにさせようと必死だったんだなーと思った。中学時代の友達は私の頭の中では中学生で止まっていて、そのときの私も同じ中学生だったのが不思議で仕方がない。

大学に入ったら同じ志を持った友達には出会えずじまいだったけど、それはそれでしょうもないことだ。大学生は勉強が本分なようでそうではないし、部活やサークルが本分なようでそうではない。高校生までの勉強と部活が本分だという空気と、社会人になってからの仕事が本分だという空気のちょうど狭間で、何事にも真剣に取り組まなくても何となく生活できてしまう何とも贅沢な4年ないし6年間を過ごすことができる。中学生の私はまだまだ子供だったけど、一生懸命に悩みながら何かに必死に取り組む人と一緒に過ごすのがずっと好きなのは変わっていないということに最近気がついた。だから部活でもやっていけたし、不器用ながら部活と勉強とそれに付随する人間関係に苦しんで頑張っていた部活の仲間が心から大好きだった。みんなはみんなでその後色々な経験をして様々な大人になっただろうからあの頃とは違うし、私も私で大学に入ってからは他人にはとても見せられないダメな部分がどんどん増殖してあの頃にはもう戻れない。あのときの皆とあのときの私だから乗り越えられた演奏会だったしコンクールだったし、友達になれたんだと思う。だから同窓会はいらない。思い出に浸るなら1人で写真を見返して、あのときは楽しかったなぁっていう気持ちを感じるだけで充分だ。

写真っていいものだなと思ったし、今はカメラが1人1台普通に持っている時代だから前に比べて気軽に思い出が残せて、恵まれたいい時代だ。友達は子供の頃に比べたらボス戦を終えたピクミンのように激減したけど、それでも今近くにいてくれる人たちの顔を少しでも写真に収めなきゃなと思う。今は恥ずかしがっていても、きっといつか一緒に笑って見返せたらいいな。

ジェラード超うまい

生まれてくるときに家族を選べないのは当たり前なんだけど、偶然引き当てた家庭環境が大凶だったとしてもその子が今後幸せになる可能性はいくらでもある。初期条件のせいでその後のドミノの倒れ方まで決められたら本当にたまっまもんじゃない。

趣味でさえそれを仕事にしていない時点でそこまで腹をくくって向き合っていないように見えるのと同様に、離れて住んでいる元家族に対する興味の程なんてのはたかが知れている。嫌なことは我慢していればそのうち終わる。それと引き換えに美味しいご飯をおごってもらえたり追い焚きができるお風呂に入れたりしたらそれはそれで素敵なことだ。自分や相手が楽しむことよりもそこで過ごす時間やそれ自体に意味があるとしてそれをわかっていてもそこにいられないときは、自分の機嫌を上手にとりつつ我慢して過ごせばいい。黒いオセロを全部白に変えることだけが幸せじゃないし正解ではない。