自分のブログに思うまま書いて何が悪い!!

ブログは、読まれることを意識した途端書けなくなる。この間書いた「飲み会が嫌い」という記事、私のブログにしてはまぁまぁ閲覧者が増えた。やっぱりブログのタイトルと内容が一致していると読まれるんだなぁということがわかった。当たり前か。わかったところで私はブロガーでもないし、これは趣味ですらないただの思考のゴミ箱なんだけど、数字が大好きな私はどうしても閲覧者数が気になってしまう。かと言って読まれるようなブログを考える脳みそは、今日の仕事で使う分使ってしまっているので家で書くブログくらい好きなときに好きなこと書かせろとも思う。というわけでできるだけ閲覧者は見ないようにし、好きなことを書いていくことにする。

 

にしても、Twitterもブログも、今や「見られること」を前提にした個人用メディアに溢れかえっているね。(今更…←かっこ書きで突っ込むのって古いのか……)

最初にも書いたが、私は見られることを意識すると途端に書けなくなる。Twitterのアカウントはリアルな知り合いは1人もいないはずなのに、読まれることを考えると何も書けなくなってしまう。バズることを書きたいわけじゃないし、そんなもの考えて書けるような文才はないのだけど、読まれるなら面白いこと書きたいし、面白いって思われると嬉しいじゃない。

ネットには色んな人がいる。ネットにこそ自分が思っていることをガンガン書く人もたくさんいるんだろう。私は正直そういう人を見ると、もっと言葉を大事にすれば良いのにと思う。いくらネットの海に放り投げた言葉でも、それが言葉として意味をなすなら誰かを攻撃する武器になりうるし、自分だって誰が書いたかわからない言葉に深く傷つく可能性がある。言葉はすごいんだぞ。舐めてかかると大変なことになる。

私はネットでも現実でも、「何も言わないという積極的な姿勢」をとるのを大事にしている。思うことはたくさんあるんだけど、その人やその場に対して何を言っても不正解な気がすることって意外とたくさんあって、そういうときは慌てて言葉を繕ったり、何か言わなきゃと焦って思っていることと逆のことを言ってしまったり失敗しがちだと思うんだけど、そんなときこと何も言わないのだ。というか、何も言えないのだ。だんまりって言われるけど、何か言って傷つけるよりずっといいんじゃないかと私は思う。それがあきらめじゃなく、解決のための沈黙なら正しいときだってあるはずだ。

 

「見られる」ことを前提にしたコンテンツに対しても言葉を大事にできないなら、現実ではもっとそれが如実に表れるだろう。

なんかほんとはこういうこと書こうと思ったわけじゃないのに私のフリックがコックリさんよろしく勝手に言葉について書いてしまった。ブログはやっぱり思うままに書くのが楽しいよね。

スタンドも月までブッ飛ぶこの衝撃

高校の頃の友達に久しぶりに連絡した。

連絡手段はLINEだったのだけどなかなか返事が来ず、というかそもそも私の方がその子のLINEのアカウントを非表示にしていて、過去やり取りしたメッセージも消えてて、別にケンカしたり不快な思いをした/させたような相手ではないのにやり過ぎだろ…というくらい拒絶していたらしく、私がそんなだから相手からブロックされてても不思議じゃないよなと不安に思いつつ返事を待っていて、6時間後くらいにお返事が来たときは安堵した。

 

大学に入るまで、私は友達に囲まれていた。吹奏楽部に入っていたというのが一番の理由。クラスでも女友達はちゃんといたし、お昼ご飯とか移動教室とか修学旅行の自由行動とか、友達に困ることは無かった。

現在に至るまで、高校までの友達で付き合いが続いているのは今日連絡したその子だけだ。しかもその子は部活も違ったし、クラスでそんなに親しかったわけではない。ただなんとなく波長が合って、2人で食事したりカラオケに行ったりしていた。

高校生までは、それまでにできた友達と大人になってからも遊ぶのを夢見ていたけど、そう順調にはいかなかった。私の中では、「高校時代の私」と「高校時代のその子」じゃなきゃ友達になり得なかったような気がしてならなくて、決して今の私、今のその子が友達でい続けられるのかどうかは話が別だと思う。人は変わる。自分も変わる。それは明白な事実で、なのによく同窓会を開いたり参加したりするよなーと他人を見ていて不思議に思う。

 

その子とは3月に会えるらしい。楽しみ楽しみ。

猫が言葉を持たないのは不幸なことか?それこそ人間のエゴじゃあないか……

大人になったなぁと実感したことがない。

 

仕事を持ったら、車を持ったら、一人暮らししたら、お酒を飲んだら、大人になったなぁと実感するのだろうと思っていたのにできなかった。仕事を持っても、車を持っても、一人暮らししても、お酒を飲んでみても、自分は自分でしかなくて、悲しいくらいどこまでも自分で、最近はそれがなんだか嬉しい。何をしても自分はついてきてくれる。頼もしい、自分。大森靖子さんが前に言っていたけど、「大人とは、大人モードのときに大人すればいいよね」自分が世間を見渡したときに「これが大人…?」という対応を真似して自分でやってみてるときが一番大人だなぁというか、大人の対応をしているなぁと思う。

 

自分にしっかり向き合うことこそ無私の境地に立てるってなんか矛盾してる気がするけど、それは違った気がする。池田晶子さんの本、もう一回読み返したいな。

 

今日は好きな人とラーメンを食べた。美味しかった。炙った大きなチャーシューがどーんと乗った迫力の見た目、小ネギともやしがどっさり乗っていて、味玉もついてる、満足度が高い味噌ラーメン。食事というかこれは闘いだ!!と食べているうちに気持ちが昂り、好きな人の前にも関わらずラーメンにかぶりつき、汗を拭き拭き完食した。勝った……!!私はラーメンに勝った女……!!

半日一緒にいてみて、やっぱりこの人のこと好きだなぁと思った。正直なところ、嘘やごまかしをしないところ、引っ張っていってくれるところ、とても良い。

池田晶子さんは本の中で、「口があれば好きだと言えるし、性器があればセックスはできる」と書いていた。どうして世の中の人々は「好きです。付き合ってください。」の一言にこだわるんだろう。言葉を意識した方がいい場面はもっとたくさんあるのに、「好き」の一言がほしいのなんて、浅はかすぎる。本当に付き合ったら、もしくは結婚したら、「好き」以上に重要な言葉を言い合わないといけないし、ほしい言葉はどんどん増えるんだから、ぶっちゃけそここだわらなくても良くね?と思ってしまう。

告白したら「最初から友達でい続けるつもりだった」と言われ結果フラれた、という話がある。でもさ、人間関係において友達になるにしてもある程度好意はないと友達になれないし、「同じように好意はあるけど、この人は友達、この人は恋人」という棲み分けがよくできるなと不思議に思う。みんな器用なんだな……

男女の友達が成立しないなら、男女はお互いのことを性対象としてしか見られないってこと?そんな馬鹿馬鹿しいことある?

私自身、好きな人との今後のことを考えないでもない。今の自分は「好き」という一言を軽々しく言わずに好意を伝えるというのを一生懸命やっていて、それは間違っていないと思う。一番大事にしたいのは、仲良くし続けることだ。仲良くなるというのは割と簡単だ。しかし続けるのは難しい。友達の間柄であっても、一緒に過ごす回数が増えるほどボロが出る。それでも一緒にいると楽しいから一緒にいる。それには双方の努力がある程度必要だ。

 

3月末には映画を見に行く約束もしている。なんとかそれまで持ち堪えられますように。

女扱いされないよりもジェラピケ着こなせない方がショックでかかった。

前の職場で嫌いだった先輩の下の名前が思い出せない。

割と根に持つ性格というのと26歳という若さもあって、忘れることの難しさを痛感することがよくある。忘れたい過去も結構覚えていることが多いので、忘れられていると「あ!忘れてる!嬉しい!」と喜びを感じる。そんな感じで嫌いだった人の名前もネチネチネチネチと覚えているので、2年くらい前に関わっていた、割と最近まで関わりがあった人なのに名前を忘れているなんて、すごく嬉しい。最近は何度もその人の苗字を頭に思い浮かべて、「あの人の名前…… えーと、〇〇(苗字)…… の後なんだっけ…… ああー良かったまだ思い出せてない!このまま一生忘れたい!」と嫌なことを忘れているという事実を何度も反芻してウフフと嬉しくなっている今日この頃である。

 

雨宮まみさん著「女子をこじらせて」を読んだ。面白かった。

女性には珍しいAVライターを職業にする雨宮さん。本の中には、AV業界という圧倒的男性社会でどう生きるか、雨宮さんが何を考えてその業界を生き抜こうとしたのかが詳細に書かれていてとても興味深い。

AV業界ほどではないものの、私も男性社会の中で働く女性の1人だ。職場には、ジェンダーレスだ男女参画だと叫ばれる昨今の世の中とはかけ離れた、びっくりするような女性蔑視の姿勢を平気で露わにしてくる男性がいる。そういう人を見るたび、女性という性別が邪魔に思えて仕方なかったし、その一方でアクセサリーやファッションなど女性用のものを身につけて着飾る楽しみも大事にしたいと思っていた。雨宮さんは、前者のような姿勢を「内在した男性目線」と表現していて、なるほどその通りだなとあっという間に納得してしまった。

女性として扱われたくない、1人の人間として扱ってほしいと思っている背景には、性別に一番こだわっている自分がいることに気がついた。その自分から解放されるには、まず自分が自分のことを女性だということを受け入れること、そして女性であることも含めて自分だということを認めることから始まるとわかった(こと が多い…)。

私は嫌なことを言われると、あれは私が若い女(26歳なんて大して若くはないけど、職場の中ではかなり若い方なの!)だからあの人はあんなこと言ったんだろうかとか、やっぱり私みたいな女はこの職場なふさわしくないんだろうかとか、「女」「若い」ということを負の要因のように思ってしまうことがよくある。これってある種の呪いみたいなもので、自分ではなかなか拭い去ることは難しい。

雨宮さんは本の中で、確かに「女だから」「女のくせに」と言ってくる人もいるが、そんなの無関係に仕事を頼んでくれる人がいることも確かで、どうしてそういう人たちが無かったことにされてしまうんだろう、と考え方を改めたと書いてあった。私も実際にそれはあって、性別なんて一切気にせず仕事を頼んでくれる人もいる。そういうときは割と「それ絶対私の仕事じゃないよね… あなたの仕事だよね…」と仕事を受けること自体やる気が沸かないことが多いのだが、よく考えると、「この人は私を若い女としてしか扱おうとしない、ただ1人の若手として仕事を覚えてもらうために頼んでくれたんだ」とスーパー良い方に考えるとそういうことかな、と思えることに気がついた。

女性蔑視をする人がいるのは事実だが、全員がそうではないということも事実だ。いつでもそっちの方を忘れない心持ちでいたいもんだね。

世界が歪んで見えるときは自分が歪んでいるときなのだ

ほんとそうだよ。これこそ真理。

普段なら30分くらいで職場から家に着くのに、今日は2時間かかってしまった。お母さんと話したり肉まんを食べたりお風呂に入ったりしていたらやっと自分を取り戻してこれたのでブログを書いている。

ひっさしぶりに職場でガチ号泣してしまった。トイレでだけど。定時が17:30なのに17:10くらいから18:00までトイレにこもってましたね。社会人失格?そもそも私みたいな人間が普通の人に混じって仕事している時点で奇跡みたいなものなので仕方ないですね、と開き直りたいものの、最近は自分の中のメンヘラちゃんを克服できてきたと思っていたので、久しぶりに明確なメンブレを引き起こしたので落ち込んだ。私の中にまだメンヘラちゃんは存在しているのね…

 

お母さんに具体的なことを話してみたけど、お母さんはそんなの大したことないから大丈夫だよと言ってくれた。私も話してて、その出来事のどこで自分が傷ついたのかよくわからなかった。ただ、涙は止まらないし悲しみ怒り落ち込みは収まらず、一体なんなんだよと自分でも持て余してしまった。

その出来事の中で、好きな人に冷たいことを冷たく言われてしまった、というのが含まれている。私の好きな人は職場で無口だしかなり冷たい印象の人だけど、本当は周りをちゃんと見ていて気配りができる人だと思っているし、私に対する態度も普段は優しい先輩だ。言い方は冷たいけど正しいことを言っていることの方が多いし。今日だって、好きな人は別に悪くないし、至極当たり前のことを言っただけだ。だからほんと傷つく必要はないのだ。それ以外の部分でも傷つくことはないのに。なんだかすごく嫌な気分になってしまい、気持ちを落ち着けようとその場から離れてトイレに逃げ込んだら、どんどん落ち込みが内に入っていってしまい、なかなか抜け出せなくなってしまったのだ。

それに今日は、終業後に好きな人とお話をする約束をしていたのだ。なのにその直前にひどい気分になってしまって、それもさらに落ち込みを加速させたのかもしれない。顔はぐしゃぐしゃだしテンションはひどいし、そんなんでもう誰にも会いたくなくて、好きな人が先に帰るまでトイレにこもっていようと思った。

そうこうしているうちに18:00になり、さすがに帰っているだろうと思いながらデスクに戻ると、待っていてくれた。ずいぶん長い時間離席してたみたいだけどどうしたの?と聞かれ、震えながらた、た、体調が悪くて…… と答えた。

嘘だと思っただろうか。それはわからないけど、もっと楽しく話したかったし、落ち込んでいたから複雑な気持ちにもなっていて、なんかもう全てがぐちゃぐちゃだった。

 

安定した精神力がほしい。いつでも正しい判断ができる思考がほしい。感情にのまれず、冷静に考えて感情をコントロールできるようになりたい。前よか少しばかりマシだけど、まだまだ努力が必要みたいだ。

飲み会が嫌い

飲み会が嫌いだ。コロナは早く収束してほしいけど、飲み会に参加しなくてよくなったのはほんと素晴らしい。

飲み会が嫌いな理由を考えてみた。

 

まずは逆に、飲み会に参加したときのメリットを考えてみる。

・友達ができる可能性が上がる。

・おいしいものが食べられる可能性が上がる。

・利益になる話が聞ける可能性が上がる。

こんなところかなぁ。

ただし、全ての事項で「可能性が上がる」だけな気がする。話してみないと友達になれるかどうかはわからないし、お店に行ってみないと料理が美味しいかどうかはわからないし。参加する前に考えられるメリットというとこんな感じかな。

 

次に考えたいのは、これらのメリットは飲み会に参加することでしか得られないことなのか、ということだ。他のことで埋め合わせはできないのか考えてみる。

まずは友達ができるかどうかについて。飲み会に出ないと友達が増えないかというと、それは違う。職場で気が合う人に出会えるかもしれないし、電車で隣の席になった人、落としたマフラーを拾ってくれた人、リュックが開いているのを指摘してくれた人、どこでどんな人と関わるかわからないし、その後どんな関係性を結んでいくのかわからないからだ。飲み会もそのきっかけの一つでしかない。また私に限った話をすると、飲み会には全く行っていないが私なりに人間関係は安定して充実していると思う。職場では好きな人が漫画を貸してくれるし、それについての感想を言い合ったりして、それはとても楽しい。週末は実家に帰ってお母さんと色々な話ができるし、買い物したり美味しいものを食べたり、とても楽しい。友達の数は限りなく0に近いが、0ではないので満足している。わざわざ飲み会というきっかけを増やしてまで友達を作りたいかと言われるとそうでもない。

次に食事について。これも飲み会に行かなくても叶う。だって毎日の食事に満足しているし。飲み会で出された料理がイマイチだったことの方が多い気がするから、むしろ普段の方が美味しい食事ができていると思う。

最後に利益のある話が聞けるかもということについて。ぶっちゃけ、大事な話を飲み会でしかしない人がする話は大抵大事な話ではないのでこれは全く無意味だ。本当に大事な話は然るべき場所で然るべき時にされるものなので、飲み会に行かないと損をするなんてことはおかしい。

 

ということで、飲み会で得られそうなことは飲み会以外でも十分得られるということがわかった。これでますます飲み会が嫌いになった。というか参加する意味がわからなくなった。

おわり。

さぁ私を超えてゆけ

WiMAXをギガ放題プランからライトプランに変えて月7GBにしたら2月半ばにして制限を超えた。史上初の制限超え。これ、めちゃめちゃ不便ね…… まずファイヤスティックで動画が見れない。これは由々しき事態…… 2/24までにガルパンのアニメ見れるとこまで見なきゃいけないのに…… ストレンジャーシングスもまだ途中なのに…… 2/22、有給とって大正解。過去の私が一番偉いよ…… 

2月が終わるまで、平日はほぼ4Gで過ごすことが決定されたわけだが、これを機に平日の夜も色々読むことにしようかな。録画したまままだ見てないテレビもあるし。ネットが無くても楽しくできるよ。この日記はゴリゴリのネットコンテンツだけどな…… ゴリゴリのネットコンテンツって……

 

私、読んでる文章にほんと影響されるわね。これ完全に挫・人間の下川リヲくんの文体そっくりな気がする。でもリアルでもそうなんだよな。普段1番長く一緒に過ごしてる人の口調がまんまうつるなんてしょっちゅうだから、一時期がちで女優を目指そうかなと思ったこともあったが、外見に1ミリも自信ないからあきらめた。でも女優、残された選択肢……

 

最近割と暇なの、仕事が。

少し前アホみたいに忙しかったとき、可愛くしていたいのに仕事モードギンギンでどうしようもなくて、でもそのモードじゃなきゃ戦えなくてどうしよううわあああとなることがよくあった。今はそれがちょっと懐かしい。

そう思っていたら、職場にいる好きな人が私が提出した課題のレビューをしてくれたんだけど、それはそれは地獄のような時間でしたよ…… だって一から私が作ったものだからね。ビジュアルもソースも。最低限の要求仕様はあったものの実現するためのあれこれは全部私が考えて作ったものだから、純度100%の私の成果物であって、それに対してレビューされるって羞恥プレイ以外の何物でもないね…… マスクの下でめちゃくちゃ変な顔になってたよ…… レビューのおかげでまた課題ができて成長できそうなのはいいんだけど、恥ずかしくて死にそうだった…… ありがとうマスク……